陳腐化したものにしがみつく奴よりも捨てられる奴は強い
長らく慣れ親しんできて、時間も金も投資してきたものを簡単に捨てることはできるか?
多くの人が恐らく出来ないのだが、出来ないと結構しんどかったりする。
産業革命が起きたのは1760年代のイギリスだった。
紡績機や蒸気機関、製鉄技術の発達によって、イギリスは一気に工業化が進んだ。
蒸気機関によって蒸気機関車や蒸気船が作られ、ヒトモノの輸送や移動がそれまでとは比べ物にならないぐらいより早くより遠くへ行けるようになった。
紡績や製鉄の技術革新もそうだが、社会インフラもどんどん発達していく技術に合わせて整えられていった。
しかし、こういったものもやがては陳腐化していった。
今、蒸気機関車に乗って移動する人は極少数なのがその証拠。その蒸気機関車に乗る貴重な人の目的もノスタルジーを味わいたいとかそういった理由で乗っている。移動が主な目的ではない。
移動が目的なら電車を利用するのが当たり前になっている。
そんな現代を見れば分かる通り、イギリスで起きた産業革命は、電気や石油によってもたらされた第二次産業革命によって陳腐化されてしまった。
第二次産業革命が起こるとイギリスは、第一次産業革命で整ったインフラが邪魔をして、ドイツやフランス、アメリカに遅れをとることになる。
自動車を見ればよくわかるが、ドイツの車だとベンツやBMW、アウディ、フォルクスワーゲンなどがあるし、フランスもルノーやプジョー、シトロエンなどがあるし、アメリカもキャデラック、フォード、などなど沢山のメーカーが存在する。
イギリスはロールスロイスやベントレーなどが存在するが、多くはエンジンを自社開発していなかったり、今では他国の車メーカーを親会社に持つようなメーカーが多くなっている。
これは第二次産業革命期に内燃機関の技術獲得の遅れによって、あまり自動車産業が根付かなかったのも原因と思われる。
今では、ガソリン車もテスラを代表するような電気自動車にひっくり返されてきている。
テスラの時価総額は自動車メーカーでダントツの一位だ。
ガソリン車主体の自動車メーカーはそれがあるが故にテスラに覇権を譲ってしまうことになった。
ガソリン車を手放すことができないから、電気自動車や自動運転技術にフルコミットできない。
こういったことはあちこちでいくらでも起きている。
日本のIT化の遅れも同じだ。
電話やFAXのインフラが整っていて、誰もが使えるので、新しいものに中々置き換わらない。
人はそもそも変化を嫌うので、余計に難しい。
でも、元々そんなインフラが整っていなかった国や地域なら、最新のインターネット網を整備すれば簡単に人々に浸透させられる。
あっという間に電話やFAXを使っている集団を追い抜き、置いてけぼりにできるのだ。
じゃあ、自分はどうだろうか?
新しく素晴らしい技術や考えに触れた時に、自分の中にあるそれまでの常識や習慣などを捨て去ってしまえるだろうか?
そういえば、こんな問いがある。
2つのコップがあって、Aのコップには濁った水が、Bのコップには無色透明な水が入っている。
Aのコップの水を無色透明な水にするためにはどうすればいいか?
というものだ。
濁った水にどれだけ無色透明な水を入れても濁りは消えない。
なので、無色透明にするにはAのコップの水を全部捨てなければいけないのだ。
最新の技術はいずれ陳腐化する。
必ずそうなる。
その時にコップの水を捨てるように、それまで投資して得てきたものを捨てることができるか?
いや、出来なければいけない。
ただ、無色透明の水にすることが本当に正しいのかどうかはわからないし、タイミングも大事になってくる。
あとは捨てられるように依存しすぎないようにしておかないとダメだし、常に余白を自分に持たせておくのも必要だな。