「感覚」と「思い」と「言葉」で世界は作られる #色即是空
「この世界はすべて自分の心が投影したもの」
これは仏教の唯識思想でも説かれているが、物理学の世界でもそんな風に考えられていたりする。
つまりは目の前で起きている、この認識している世界は心の中のことなのだ。自分の心の中を見て、聞いて、嗅いで、味わって、肌で感じている。(それぞれ眼識・耳識・鼻識・舌識・身識といって、これらを五識と呼ぶ)
目や耳や鼻や舌や肌で認識している世界はどう考えても心の外の世界としか思えないのだが、なぜ心の中だといえるのか?
まったくもって頭が混乱する話だろう、、、。
ただ、こう言い換えてみて、ひとつずつ見ていくと、理解できそうなことでもある。
「私がそう感じ、そう思い、言語化したから、そのものは目の前に存在する」と。
例えば、今日私が街を歩いていると、道の向こうから「"可愛い"女性」が歩いてきた。
でも、実は私が見たのは、というか見せられたのは「女性」だ。心の外に女性は存在しているが、"可愛い"というものは実際にはない。
なので、「可愛い女性」というものは存在していない。なぜなら"可愛い"というのは私に生じた「思い」だからだ。
視覚という感覚が関わり、見るという行為(出来事)が起きた。その「感覚」に"可愛い"という「思い」をプラスした。
この"可愛い"という思いは末那識という、自我執着心から生み出されている。
その女性が可愛いかどうかは人それぞれに違う思いとなるので、その人を可愛いと思っているのは「自分」という自我に執着している結果なのだ。
そして、「あの人、可愛い女性だな〜」と言葉を発してしまう。この言葉を作るのが意識。
意識とは、五識と一緒に働いて感覚を明瞭にしたり、言葉を使って概念的に思考するものだ。
(五識に意識を足して六識と呼ぶ。)
心の外に女性は確かにいるが、「"可愛い"女性」はいない。「"可愛い"女性」は私の心の中にしか存在していない。しかし、私は「可愛い女性」が心の外に存在していると感じているし、そう認識している。それはこの世界が私の心の中で描かれている世界だからだ。
こういった六識や末那識、思いや可愛いという煩悩の一切を生み出すものが根本の心。その根本の心は阿頼耶識(あらやしき)と呼ばれている。
六識に末那識、阿頼耶識を加えて「八識」と言う。
攻殻機動隊の草薙素子が「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らせ」と言っているが、八識に当てはまる話なのだ。
自分を変えるというのは根本の心を変えるということ。
「自分」に執着せず、無我であること。
少佐は色即是空を説いていたんだな〜。