「教育の本質」は子どもをナメるなってこと
「正しいコミュニケーションを教えるよりも、コミュニケーションの楽しさを教える」
視覚も聴覚も失った7歳の少女ヘレン・ケラーに、言葉を教えた(言葉だけじゃないけど)アン・サリバンはそんな感じのことを言ったらしい。
教育の本質だと思う。
どうしても教育者は「正しい」を教え込もうとしてしまいがち。
正しい英語、正しい数学の解き方、正しいExcelの使い方などなど。
でも、そんな事よりもそれを使ってできることの楽しさが伝われば、学ぶ意欲は自然と起きていくので、勝手に教わっているものだ。
正しさを押しつけてしまうので、学びが面白くなくなってしまうのだ。
ヘレンはアンと出会う7歳まで言葉を知らずに育った。
アンに出会い、言葉があることに気づき、使えるようになってからはコミュニケーションが楽しくて仕方がなかっただろうと思う。
もちろんそこに至るまでの物凄い苦闘があったし、無音の暗闇の世界からヘレンは脱出できたんだと思う。
ただ、ヘレンがコミュニケーションの楽しさを覚えるよりも前に、正しさを教え込まれていたら、もしかすると言葉を学ぶことをやめていたかもしれない。
コミュニケーションの楽しさを知ったから、言葉を学ぶ意欲が湧いてきたのだろう。
さらにアンは自分もそうだろうが、周りの大人たちふくめ、ヘレンに対してわざわざ簡単な言葉を使うことを禁じたらしい。
これは大人が子供と話すときについついやってしまうことだ。
極端な例でいくと「車」を「ぶーぶー」と言ったりすることだ。
どこかで子供は「車ってなにー?」となるので、「ぶーぶーは車のことだよ」って伝えなければならない。
そういった子供向けの言い回しは沢山あるし、子供向けの言い回しだけではなくて、簡単な言葉と難しい言葉はある。
アンはそういった難しい言葉も躊躇わずに使うように周りの大人達にも伝えていた。
難しい言葉を受け取ることでヘレンは学ぶことができたのだ。
簡単な言葉ばかりを受け取っていても成長がないし、そもそも子供は難しい言葉でも理解できる能力がある。実際にヘレンは10歳で大人顔負けの手紙を書いている。
子供をナメるなってことなんだろう。
受け取るものがハイレベルなものであれば、子供はしっかりとそのレベルを受信できて、自分のものにしてアウトプットする能力を持っているのだ。
わざわざ正しいものを教え込まなくても、自然と正しさも身につけていくのが子供なのだろう。
楽しさを伝える。
よりハイレベルで本物を伝える。
それが教育の本質なんだろうと思う。