「自分」なんてこの世に存在していない #色即是空
木。植物の木。
山に生えている時、遠くから見たら木は山の一部なので、「山」と認識されている。
その木を山から切り出してしまえば、「木材」となる。
その「木材」を使って家を建てれば木は「家」となる。
「家」を潰してしまえば木はゴミとなって、燃やされる。
そうすると木は灰となり、空気となり、いよいよ誰からも「木」とは認識されなくなる。
そもそも「木」の大部分を成す炭素原子は、二酸化炭素の炭素原子である。
もともとを「空気」だったものが「木」になっているのだから、これは本当に驚く。
さて、「山」を分解してみたらどうなるだろうか?
「山」は土や石や木や草や川の水や雪や動物、虫の集合体だと分かる。
そこに「山」と呼べるものは無い。
「家」を分解してみたらどうなるだろうか?
「家」は木だけではなく、ガラスやコンクリートや、中には家具やら電化製品やら、色々な物がある。
そこに「家」と呼べるものはない。
では、「自分」を分解してみるとどうなるだろうか?
髪の毛や爪、眼球、皮膚、内臓、血液、腕、足などなど、どれも「自分」と呼べるものはない。
さらに細かく細胞に分解してみても同じ。
もっと細かく分解すると原子になる。
酸素原子や炭素原子。
それらは「自分」になる前までは、水だったり、植物だったり、動物だったりした。
水や植物や動物の前はまた違うものだった。
「山」や「家」や「自分」とは一体なにか?
原子のレベルで見た時に「植物だった時の炭素原子」と「空気だった時の炭素原子」と「自分の時の炭素原子」に何の違いがあるのか?
そういった原子の塊の「山」と「家」と「自分」に何の違いがあるのか?
なぜ「自分」は「自分」で、家でも無く、山でもなく、空気でもないのか?
「自分」とはただの概念でしかない。「山」も「家」も同じようにただの概念だ。
さっきまで自分だったものが山にもなり、家にもなるのだから。
全てが自分であり、自分が全てでもある。
無我。
唯識。
学んでいくとなんとも難しい。
釈迦の悟りに最新の量子力学や理論物理がようやく追いつき始めていて、釈迦の凄さを改めて知る。