人生は暇つぶし

人間の一生はただの暇つぶし。どうせ暇つぶしするなら、より楽しく、面白くすれば幸せ!そんな暇つぶしのための「心技体」をシェアしているブログ。毎朝8時更新!

多面的に見る

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因数分解をしてみるとある一面からだけの深堀になってしまい、偏った認識を持ってしまう可能性が高い。
なので、無理やりにでも多面的に見る必要がある。
多面的に見ることでフラットに物事を見れるようになるし、そのものがよりよくわかるようになる。
知覚の精度が上がるといった感じだろうか。

 

お米というものがある。
多くの日本人が毎日のように食べる食べ物だ。

このお米を因数分解してみるときに様々な視点で考えてみると、よりお米というものが何物なのかがわかるようになる。

お米は穀物だといわれている。
穀物とは澱粉(でんぷん)質を主体とした種子を食用にしたものをいう。
お米のほかに小麦や玉蜀黍(とうもろこし)などがある。

お米は乾物だという見方もできる。
乾物とは乾燥させた食べ物で、保存性が高い。
切り干し大根、乾燥わかめ、高野豆腐、インスタント麺などなど。
乾燥させたままでも食べられるけど、水で戻して食べることが多い。

お米は野菜ともいえる。
野菜とは主に食用の草のことをいう。
食べる部分は野菜によってまちまちで、葉を食べたり、茎を食べたり、根を食べたり、種子を食べたりする。

 

穀物としてお米を因数分解すると、小麦や玉蜀黍が同じレイヤーに並ぶことになる。「炭水化物などの栄養素」、「産地」、「脱穀」、「精製」、「調理方法」などで分解して他の穀物と比較してみるとお米とはどういったものなのかがわかる。
小麦はパンにして食べるがお米は炊いて食べる。どちらも脱穀して精製していることが多いが、全粒粉パンや玄米といったものの価値が最近だと見直されていたりする。

乾物としてだと、「乾燥のさせ方」、「保存方法」、「水での戻し方」といったことで分解できる。他の乾物と比較することで、よりお米がどんな特徴を持っているかがわかる。
お米は水で研いで洗う。この時に一番初めの水はすぐに捨てろと言われている。これは乾燥したお米が水を吸収する時に、お米についていた不純物なども吸収してしまうからだ。また浸漬(しんせき)といって、水につけておくことで炊き上がりをよくしたりもする。

野菜としてだと、「品種」、「栽培方法」、「収穫」、「食用部分」などで分解して、他の野菜と比較してみるとお米というものがそこそこ特殊な野菜なのがわかる。
お米は畑ではなく田んぼで作られるのが最大の特徴。品種も様々で日本人の多くが自分の好きな米の品種をもっていたりするのも面白い。

 

かなりざっと書いてしまったし、他にもたくさんお米の多面的な見方はある。
デザインで切り取ってみてもいいし、味や匂いや触感でもいいだろう。

とにかく、ある一面からだけの情報で偏った認識をしてしまわないように、多面的に見る癖をつけなければならない。

癖づけるためには、まずは無理やりにでも多面的に見る機会を作ることが必要だ。

対内の事情で成果が出せないということは良くあるけど、無い方がいい

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人間は論理ではなく、感情で意思決定する生き物だ。

 

とある会社でのこと。

新製品の商品Aと商品Bのどちらかを販売することになった。

誰がどう見てもBの商品の方が売れそう。

だけど、Aを販売することになった。

理由は、Bを作った奴のことをみんな嫌っているからという幼稚な理由だった。

仮にBを販売することになっても、販促とか協力せずに、全く売れないようにすれば、それを作った奴の評価はガタ落ちになるから、そうしようとなっただろう。

 

1ヶ月遅れて他社からBの商品と同じような商品が売り出されて、バカ売れした。

当然Aの商品はまったく売れなかった。

商品Aに関わった奴らは当然粛清されてしまったし、商品Bを企画した人は後々評価されることになるが、すでにその会社からは退職していた。

結果、その会社は業界でのシェアを失ってしまい、消えていった。

 

こういったしょうもない内部事情によって、本来出せる成果が出せないってことは、あってはならないけれども本当に結構ある話。

 

ビジネスだけではなくて、政治でもスポーツでも学校でもどこでもこういった意思決定は行われている。

 

誰がどう考えても非合理で馬鹿らしいのだが、それが人間の悲しい性なのだろう。

陳腐化したものにしがみつく奴よりも捨てられる奴は強い

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長らく慣れ親しんできて、時間も金も投資してきたものを簡単に捨てることはできるか?

多くの人が恐らく出来ないのだが、出来ないと結構しんどかったりする。

産業革命が起きたのは1760年代のイギリスだった。
紡績機や蒸気機関、製鉄技術の発達によって、イギリスは一気に工業化が進んだ。
蒸気機関によって蒸気機関車や蒸気船が作られ、ヒトモノの輸送や移動がそれまでとは比べ物にならないぐらいより早くより遠くへ行けるようになった。
紡績や製鉄の技術革新もそうだが、社会インフラもどんどん発達していく技術に合わせて整えられていった。

しかし、こういったものもやがては陳腐化していった。
今、蒸気機関車に乗って移動する人は極少数なのがその証拠。その蒸気機関車に乗る貴重な人の目的もノスタルジーを味わいたいとかそういった理由で乗っている。移動が主な目的ではない。
移動が目的なら電車を利用するのが当たり前になっている。

そんな現代を見れば分かる通り、イギリスで起きた産業革命は、電気や石油によってもたらされた第二次産業革命によって陳腐化されてしまった。

第二次産業革命が起こるとイギリスは、第一次産業革命で整ったインフラが邪魔をして、ドイツやフランス、アメリカに遅れをとることになる。

自動車を見ればよくわかるが、ドイツの車だとベンツやBMWアウディフォルクスワーゲンなどがあるし、フランスもルノープジョーシトロエンなどがあるし、アメリカもキャデラック、フォード、などなど沢山のメーカーが存在する。
イギリスはロールスロイスベントレーなどが存在するが、多くはエンジンを自社開発していなかったり、今では他国の車メーカーを親会社に持つようなメーカーが多くなっている。
これは第二次産業革命期に内燃機関の技術獲得の遅れによって、あまり自動車産業が根付かなかったのも原因と思われる。

今では、ガソリン車もテスラを代表するような電気自動車にひっくり返されてきている。
テスラの時価総額は自動車メーカーでダントツの一位だ。

ガソリン車主体の自動車メーカーはそれがあるが故にテスラに覇権を譲ってしまうことになった。
ガソリン車を手放すことができないから、電気自動車や自動運転技術にフルコミットできない。

こういったことはあちこちでいくらでも起きている。

日本のIT化の遅れも同じだ。
電話やFAXのインフラが整っていて、誰もが使えるので、新しいものに中々置き換わらない。
人はそもそも変化を嫌うので、余計に難しい。

でも、元々そんなインフラが整っていなかった国や地域なら、最新のインターネット網を整備すれば簡単に人々に浸透させられる。

あっという間に電話やFAXを使っている集団を追い抜き、置いてけぼりにできるのだ。

 


じゃあ、自分はどうだろうか?
新しく素晴らしい技術や考えに触れた時に、自分の中にあるそれまでの常識や習慣などを捨て去ってしまえるだろうか?

そういえば、こんな問いがある。
2つのコップがあって、Aのコップには濁った水が、Bのコップには無色透明な水が入っている。
Aのコップの水を無色透明な水にするためにはどうすればいいか?
というものだ。

濁った水にどれだけ無色透明な水を入れても濁りは消えない。
なので、無色透明にするにはAのコップの水を全部捨てなければいけないのだ。

 


最新の技術はいずれ陳腐化する。
必ずそうなる。
その時にコップの水を捨てるように、それまで投資して得てきたものを捨てることができるか?
いや、出来なければいけない。

ただ、無色透明の水にすることが本当に正しいのかどうかはわからないし、タイミングも大事になってくる。

あとは捨てられるように依存しすぎないようにしておかないとダメだし、常に余白を自分に持たせておくのも必要だな。

体験の機会を奪われた社会は共感を失う

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Twitterで発見した一枚の画像。

本当にこんな社会になっているので笑える。

 

この画像を見た瞬間に「マトリックス」を思い出した。

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人間はバーチャルな世界で生きていて、現実では人間電池として機械の養分になっている。

 

マトリックス」まではいかないにしても、どうやら私たちの社会でも体験の機会をすっかりと奪われてしまったようだ。

奪ったのはサピエンス全史で言うところの想像上の秩序ってやつだろう。

 

まだ完全に奪われてしまったわけではないが、まだまだこの流れは進んでいくだろう。

 

これからどんどん人間の共感力はなんとも貧相なものになるだろう。

 

例えば、富士山を見るとする。

実際に行って見た富士山は間違いなく富士山。

だけど、スマホやパソコンで見た富士山は、実は富士山を見ているのではなくて、実際に見ているのはパソコンやスマホの「画面」なのだ。

 

2人で現地で富士山を見れば、2人ともが同じ富士山を見ている。

だけど、それぞれの家でそれぞれのスマホやパソコンで見ていれば、見ているのはそれぞれ別の画面を見ているだけなので、同じものを見ることはない。

 

同じものを見る。

同じ場所にいる。

同じことをする。

同じ音を聞く。

同じ味を味わう。

 

こういった同じ体験をすることで、人間は「気が合う」という絶妙な感覚を養っている。

 

この感覚が失われていくとどうなるのだろうか?

人と人との関係性はどう変化していくのだろうか?

 

私たちが共感から得られている価値とはなんなのか。

今こそ考えたい価値だと思う。

僕たちは所詮、茶番劇の社会で暇を潰し続けるだけ

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新型コロナという世界規模の茶番劇が始まってから、もうかれこれ1年半ぐらい。

 

恐れるほどのリスクもない新型コロナを無意味なワクチンで決着をつけようとしている。

 

茶番劇に気付く者もいれば、なにも考えていない者もいれば、受け入れる者もいるし、積極的に茶番劇を盛り上げる者もいる。

 

そんなこの茶番劇で1つ良かったのは、これでハッキリとしたよねってことだという事。

世の中をどう見ている人なのかが本当にハッキリとしたのが、この一年のことだろう。

 

マスクを着けることが当たり前になった人もいれば、素顔でいる事が当たり前のままの人もいる。

ワクチンを打つ人もいれば、打たない人もいる。

 

どんな立場の人も所詮はこの世の中の茶番劇から抜け出すことなんて出来ない。

 

この壮大な茶番劇のなかで、どうやって人生の暇を潰して生きるか。

ただただそれだけでしかない。

 

まぁ、楽しんでいきしょうよってことだな。

思考力の基本は因数分解にある

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因数分解とは中学3年生の数学で習うもので、ある式を掛け算の式に変形させることをいう。(めちゃくちゃ簡単に言うと)

例えば、15+20は5*3+5*4という式に変形できる。
この式は5(3+4)に変形できて、これを因数分解したという。

で、15を分解すると5と3に分けることができるし、20は5と4に分けることができる。
わけた2つの要素の掛け算で元の数字を説明できる。
5*3=15になるし、5*4=20になる。

実は、物事が2つ以上の掛け算で説明できることは数学以外でもたくさんある。
例えば、レストランの売り上げは、"客数*客単価"で説明できる。
頭の良さはもしかしたら、"知覚*思考"で説明ができるかもしれない。

じゃあ、知覚はというと、"基礎知識(視覚+聴覚+嗅覚+味覚+触覚)"で説明できるかもしれない。
そして、思考は、"俯瞰力*因数分解力*比較力*創造力"なのかもしれない。

私たちはこんな風に、知覚したものを全体的に捉えた後に、因数分解してどんな要素でそれが構成されているのかを理解していこうとしている。
この時にしっかりと因数分解できればインプットの精度は高まる。より正確にそのものを認識できているのだから。
間違った要素で分解されていたり、分解の階層が浅かったりすると、インプットが粗くなってしまう。なので、アウトプットも精度を欠いたものになってしまう。

どれだけ正確に、より早く、より深く因数分解できるかは、数学と同じで何度も繰り返しおこなうトレーニングが物を言う。

因数分解する時の方法(フレームワーク)やルールもあったりするので、それはまた続きで書こうと思う。

最後に、

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ドラえもん因数分解するとこうなるという意味では中々秀逸な解答で面白い。

「ある」と「ない」の視点

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人は「ない」視点に陥りやすい。

時間がない。
お金がない。
才能がない。
スキルがない。
人材がいない。
リソースが足りない。

不足を探し始めるといくらでも見つかる。

でも、時間が無いという人は本当に時間がないのか?

朝起きた私。
仕事が始まるまでに、
散歩する時間がある。
歯磨きをする時間がある。
コーヒーを飲む時間がある。
本を読む時間がある。
SNSを見る時間がある。
こうしてやったことを書き出してみるとかなりの時間がある。

今日一日やったことを書き出してみたら、たくさんの時間があったことに気付く。

 


自身の能力も同じ。
今日やったことを考えると、
ミーティングで意思決定ができた。
新しいアイデアを思いついた。
それを他人に分かるように伝えられた。
データ分析をしてボトルネックを発見した。
取材記事の加筆修正をした。

できたこと、やったことを見ると、たくさんの能力に気付く。

 


不足から充足へ。
「ある」か「ない」は壁のどっち側に視点を置くかで決まる。

どっちかが正しいのではなくて、どっちも事実。

「ある」も「ない」もどっちも気付くことが大切だ。

好奇心を殺すとバカになる

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ビジネスで成果を出す人に共通してあるものが「好奇心」なような気がする。

会社に雇われている人であれば、自社の売上や利益が自分のお給料に反映される。だから、どれぐらい売上があるのか。利益があるのか。それはどれぐらい成長しているのかって気になるのが至極当然のように思う。

じゃあ、自社の商品やサービスを取り巻く環境はどうなのか。市場を調べてみたり、他社製品を調べてみたり、これまでの歴史を学んでみたり、今後はどうなっていくのかという未来予想を考えてみたり、そういった事を自分から知ろうとするのも必然的に起こるような気がする。

外の世界を知って、「自分の勤めている会社のここってどうなんだろう?」って疑問に思って、深掘りして課題を発見したり、解決策を考えたり、実践したりするのも、普通に起こり得ることだと思う。

だけど、私が見てきた多くの人はそんな事はしていない。

自分で疑問に思ったり、不思議に思ったり、知ろうとしたり、学ぼうとしたり、そういったことがない。
もしかするとそう思うことはあるのかもしれないが、実際の行動に移して、何かをしているなという人がほぼいない。
自分の仕事に関連している本すら読まない。

そういった人たちは残念ながら仕事ができない。

逆に、ほんのひと握りのそういったことが出来る人は総じて活躍していくことになる。

 


私はこの違いを子ども時代に知的好奇心を育んできたかどうかが要因の一つになっていると考えている。

子どもは本当に大人が不思議に思わないようなことも不思議に思う。

「なんで鳥は飛ぶの?」
「なんで朝は明るいの?夜は暗いの?」
「1番最初のお母さんは誰から生まれてきたの?」

たくさんのこの世界の不思議を切り取って、探求しようとする。

この子どもの好奇心に対して、大人がどう答えてきたかが非常に重要。
悪い対応をしていると子どもの好奇心は失われていき、思考停止人間となって、仕事もやらされ仕事しかできなくなる。

 


例えば、こういったケースがあれば注意したい。

子どもが「なんで?」と聞いているのに、「あとで」と言って、好奇心にリアルタイムで対応せずに先送りしているケース。
子どもの興味関心の移り変わりはめちゃくちゃ早いので、その場で深掘りしなければこの好奇心はすぐに死んでしまう。
繰り返し先送りする対応をしていると、好奇心が育たないのは当たり前だ。

また、答えだけをすぐに与えているケースもよくある。
「なんで?」に“応える“必要はあるが、“答える“必要はなかったりする。
好奇心を持った事に対して一番必要なのは体験からくる経験。
高い知性を得られるには、知覚と思考が磨かれることが大切で、好奇心から始まった体験ほど知覚と思考を磨ける経験ができる時はない。
つまり、物凄いチャンスなのだ。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感という知覚機能を使って、好奇心の対象物をインプットして、自分の脳みそで思考しアウトプットする。
この経験値を得られるのが好奇心をもったタイミングで体験をすることなのだ。
だから、リアルタイムで鮮度の良い内に対応するのが大事になる。先ほども書いたが、時間が経てば興味が薄れて、体験もしなくなるし、経験の質も落ちてしまう。

 


ビジネスで活躍している人は子ども心に不思議がり、疑問を持ち、その疑問にリアルタイムで対応している。
そして、ただ答えを得るだけでなく、自らの体験でもって答えを見つけ出している。

本当に好奇心を育てるって大切だ。

「否定しない」付き合い方

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若手ビジネスマンからの相談

「マネジャーってどんな人がいいと思いますか?」

とある若手ビジネスマンから受けた相談。
話を聴くと、その人のチームのマネジャーは否定から始まり、否定で終わるそうだ。

だからか、ミーティングでそのマネジャーがいる時はメンバーが萎縮してしまって、意見も出ないし、議論も活発化しない。
どうせ言っても否定されるし、マネジャーのやりたい事を通して、それで決まりなんでしょっていうか、どうせやる事決まってんでしょみたいな空気があるらしい。

だから誰も何も言わなくなってしまったのだが、マネジャーは皆んなが意見を言わない状況にも不満があるそうだ。

「みんなちゃんと考えている?」と、イラつきながら言われるらしい。

 


「人望が集まる人の考え方」

私の好きな本で「人望が集まる人の考え方」というレス・ギブリンが書いた名著がある。
その本には、”人は承認されたがっているし、自分は重要だと感じたいと思っている。それが満たされない時に人はその組織を去る。”みたいなことが書かれている。

これは本当にその通りだと私も思う。
人は自分が一番大事だと思っている。
自分を一番大事だと思っていない人は、自分以外も大切にはできない。
自分は有能だと感じたいし、自分は他人から必要とされていると感じたいし、自分は誰かの役に立っていると感じたい。

それが人間なのだ。

そう感じられる事がやる気につながったり、創意工夫につながったりする。
いわゆる“モチベーション(動機)”というやつだ。

否定しない。
承認をする。

たったこれだけで人は自発的に主体的に学び、考え、実践していく。

 


私のチームでのこと

ある地域を活性化させるプロジェクトチームとして、私を含めて5人のメンバーが集められた。

メンバーの力量から考えて、いきなり何かを具体的に決めて実践できるわけではなかった。
まずは「活性化させるとはなにか」という、ゴールの言語化と認識を統一・共有するところから始めた。

とにかく私は発言を控えて、メンバーからの意見を板書して、まとめることに徹した。

それで活性化のゴールが決まって、次に現状はどうなっているのか?をメンバーに質問した。

「なんだか寂れている」
「盛り上がっていない」
「隣の大都市に比べて面白みがない」

などなど、出てくる意見は粒度が粗く!誰も正確に現状を把握していなかった。

それであればと、まずはそれぞれがその地域の事を調べて、ちゃんと知ることから始めようとなった。

「○○さんはなにを調べてきます?」と、わたしがしたのは問いかけるだけ。なにを調べるかはメンバーそれぞれに決めてもらい、次のミーティングで発表してもらった。
発表の次はそれぞれが発見した課題に対して、具体的にどんな事をして解決していくかを決めていってもらった。

「じゃあ、具体的にはどんなことやってみます?」と質問して、私は壁打ち役を担っただけ。決定事項はすべてそれぞれのメンバーが個別に決めていってもらった。

「○○をやってみたいと思います」と課題解決のゴールが決まれば、「良いですね!じゃあ、次のミーティングまでにステップ1をやってみましょ!」って感じで、それを承認して、実践してもらった。

議論は非常に活発に行われていたし、メンバー誰もが主体的に関わっていたと思う。
少なくとも私から「意見ないですか?」とか「これやってください」とか言ったことはなかった。

ここで決めた事の全てが形になったわけではないし、今もプロジェクトは進行中なのだが、いくつかは上手く事が運んで、少しずつ成果も出てきている。

否定しない付き合い方をするだけでメンバーの活動は変わるのだ。

「宇宙から見る」という忘れてはならない視点

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どんなものでも2つの面がある。
大きいと小さい。
明るいと暗い。
高いと低い。
広いと狭い。
強いと弱い。
男と女。
右と左。
上と下。

高い知性を身につけていく上でも非常に大切な法則だ。
陰陽の法則とでも呼ぶことにする。

繰り返すが、手詰まりを起こさずに活躍できる人には、高い知性が必要だ。
高い知性を獲得するために、幅広い基礎知識を学び、体験をして、失敗をして、知覚と思考を鍛えていく。

知覚はインプット。思考はアウトプット。
より良いアウトプットをするためには、より良いインプットが必要で、その逆もまた然り。
陰と陽は相乗効果をもたらす。(時には相殺するけども)
なので、どちらも同様に鍛えていかないといけないし、どちらかを磨けばもう一方も磨かれていくのが原理原則だ。

前置きが長くなってしまった。
今回の本題に入ると、より鋭いインプットとアウトプットができるようになるためのヒントがある。

それが「宇宙から見る」ってやつだ。

どんなものでもまずは宇宙から眺めてみる。
地球でもいいし、日本でもいいし、あべのハルカスでもいいし、USJでもいいし、冷蔵庫のプリンでもいい。
もしくは、明日の学校行くか行かないかの問題や、人前で転んで恥ずかしかったことや、ゲームがなかなか上手くできないこととか。

宇宙から見ると全部どうでもいいことに思える。

どうでもいいことに思えてからもう一度、宇宙から見てみる。
例えば、冷蔵庫のプリンにしよう。
宇宙から見たら、そのプリンの原材料がどこでどうやって作られるかもわかるし、どれほどに沢山の、そしてごく僅かのプリンが生産されて、人々の手に渡っているのかもわかる。
その一つがたまたまにして、そして必然的に自分の家の冷蔵庫に入り、兄弟に知らぬ間に食われてしまう。

宇宙からプリンを見た時にその一個が他人に食べられようが食べられまいがどうでも良くなる。

 


ビジネスでもそういったことはよくある。
特に意思決定をしていく場で起こる。

目の前の事に捉われてしまい、視野が狭くなり、選択肢が狭まり、本当に必要な合理的な判断が出来なくなる。

バニラアイスとチョコアイスのどちらを販売するか悩んでいるとしよう。
調査によって、どうやらバニラアイスのほうがニーズが高いとわかる。
しかし、社内の偉いさん方にチョコアイス派が多いとか、チョコの原料を仕入れている取引先に恩があるとか、試食会ではチョコアイスの評判が高かったとか、まぁ色んなしがらみが出てきたりする。
この時、宇宙から見たら、そんなしがらみなんてどうでもいい事だとわかるけど、目の前にあるとわからなくなる。

目の前の事を見ていると正確なインプットとアウトプットができなくなるのだ。

例えば、絵画でもいいだろう。
壁一面に掛かるような大きな絵を鼻が当たるぐらい間近で見ていてもどんな絵かはわからない。

離れて見るから、「あ、これは富士山の絵なんだな」と分かる。
細かく見るのではなく、まずは全体をぼんやりとでいいから眺める。

実はこれが正確な知覚と思考に必要なこと。

そして、全体を見れば一部を見る。
全体を見るから、細部を見れる。
細部を見るから、全体が見れる。

これも陰陽の法則だ。

失敗。それは高い知性を身に着けるために必要なこと

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高い知性(知覚と思考)を身に着けるために、幅広い基礎知識を身につけようと前回書いた。

ただ、知性を磨く目的で知識を身に着けるにあたって、必要な体験がある。
それが「失敗」だ。

わざわざ失敗する必要はないのだが、まぁ失敗もするでしょってぐらいの意味でとらえてほしい。

例えば、10本の人参を並べられて、食べずにどの人参が美味しいかを当てなさいと言われて、なんの知識もなしにいきなり全問正解できる人がいるだろうか?

まず間違いなく失敗する。

でも、とにかく真剣に食べずに美味しい人参を当てにいってみる。
それを「当たりをつける」とか「仮説を立てる」、「ポジションをとる」というのだが、自分のなんとなくの感覚でもいいから選んでみる。

それで答え合わせをしてみる。
正解と不正解を知ったうえでもう一度比べてみる。

美味しさを判別する要素はどこにあるのか?

色か?重さか?硬さか?香りか?叩いてみたときの音か?
仮説と失敗、成功を繰り返すことで知覚と思考が同時に磨かれていく。

 

知覚とはインプット能力のことだ。
様々な角度から観察することで今まで認識できていなかったものが認識できるようになる。
初見の人には分からない人参の違いが知覚を磨くことで分かるようになる。

思考とはアウトプット能力のことだ。
今回のテストであれば、認識した人参の差と美味しさを結びつける頭の中での作業。
より色が濃いから美味しいのではないか?
より重いから美味しいのではないか?
より香りが強いから美味しいのではないか?
そうやって当たりをつけて、自分のポジションをとる意見、考えを出す。
まずは盛大に失敗をして、恥もかいて、なぜ間違えていたのかを考えることで、思考は磨かれていく。

答えだけをインプットしても、知覚は磨かれないし、思考も鍛えられない。
高い知性を身に着けようと思えば、まぁ失敗もするでしょってことなのだ。

なぜなら答えを知らずに、答えを知ろうとして、自ら体験をしようとするからだ。

知らないことを知らない罪深さ

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先日、とある器の骨董品屋に伺った。
器の知識などまるでない私が見ても、どれが良いか悪いかも判断がつかないものだった。

店主に話を聞いてみるのだが、なにを聞いていいやらわからず、器の魅力がよく分からずじまいで店を出た。

結果、「というかどれが骨董品かどうかもよくわからん」となった。

そんな話を私の食の先生でもある鮨屋の大将に話すと骨董品の器について、入り口だけ教えてもらえた。

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例えばこのお猪口。
古いものから新しいものまで入り混じっていて、骨董品ではかなり価値のあるものまで並んでいる。

先生は「どれが古いものか選んでみなさい」私にと問題を出してくれた。

私は見事に最初は間違える。
半分ぐらいは骨董品だと思って選んだのだが、「選んだ中から古いのは2つだけ、選んでない方にもまだ1つある」とヒントをもらい、なんとか正解を引き当てられた。

先生も骨董品なんて最初は全くわからなかったそうだ。
貧乏だったがために、骨董市などで安く手に入る皿を買わなければいけなかったところから、骨董品への道が始まったそうだ。

当然、周りに骨董品のことを教えてくれる人なんていなかった。
だけど、今では「なんでも鑑定団」で予想がほぼほぼ当たるぐらいにまで価値がわかるほどに目利きができる。

周りに教えてくれる人なんていなかった。
これまでに失敗もたくさんしてきて、恥もたくさんかいて、その度に色んな人に聞きまくったらしい。
自分が無知であることを認めて、隠すことなく学んできたのだ。
最初から正解を教えられるんじゃなくて、そういった無知を知る体験から自身の知覚を鍛え、思考を磨いてきたからこそ、今では周りの料理人からも尊敬される人になったんだと感じた。

たまに器でも分かった気になって話して、自分の知識の間違いに気づきもせずに偉そうに話す奴もいるそうだ。
そんな奴はそのままでは一生成長しないだろう。

無知の知」という言葉がある。
無知である事を知るという意味で、哲学の父ソクラテスの言葉だそうだ。

無知なことよりも、無知であることを知らないことの罪深さ。

そして、無知の知によって、鋭い知覚と思考が得られることがわかった。

骨董品の世界って素晴らしい。

課題発見や課題解決できないビジネスパーソンにならないために

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ファシリテーターとして参加しているあるプロジェクトのミーティングでのこと。

実際に主体となって動いているメンバー2人から、ほぼ意見が出てこない状態だった。

「ここが課題に感じる」とか、
「こういったことを解決したい」とか、
「これをすれば上手くいくんじゃないか」とか、
「そうするためにはこれが障害になっている」とか、
そういった意見や言葉が出てこない。

自らそういった事を思考し行動出来る人はビジネス現場で活躍できる人だ。

意見が出てくる人とそうでない人の差はなんなのか?と、改めて強く思った。

 


話を聞いてみるとまず現状を把握できていなかった。

「今、どれぐらいの進捗状況なんですか?」
「何件アプローチができて、成果はどれぐらいあがっていますか?」
こういった質問に答えれないのだ。

じゃあ、具体的な目標は決まっているのかというとそんなこともない。
「ターゲットはどこに絞っているんですか?」と聞いても答えは返ってこない。

現状把握も目標設定もできていないので、当然課題も見つからない。
課題が発見できなければ、解決手段を決めることもできないので、行動が決まらない。

そうするとプロジェクトは暗礁に乗り上げる。

そうならないようにするためには、現状把握を正確にすることから始めなくてはいけない。

これを自ら思考して、「あっ!現状把握しないとダメだな!」って気づけるかどうかは、スポーツの経験でも良いし、音楽の経験でも良いし、ものづくりの経験でも、なんでもいいのだが、そういった経験からでも学べることであって、自ら思考して体験しているかどうかに物凄く関わってくることだろう。

目標を定め、現状を把握し、課題を見つけ、それを解決していく。

きっと人生の色んな場面でおこなっていることなのだが、これをやらされ的にこなしてきたのか、自分で自ら思考し行動してきたのかで、ビジネスで活躍できるかどうかが変わってくる。

何度も書くが、

「目標を定め、現状を把握し、課題を見つけ、それを解決していく」

自分で考え行動するとはそういうことなのだ。

体験により知性は磨かれていく

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ドラゴンボールから学べる原理原則を解説。

その2。

 

ブルマと出会ったばかりの悟空は、いわゆる世間知らずだった。

文明とは関わらない世界で生きていた野生児の悟空は、車もテレビも電気も知らなかった。

女性に会うのもブルマが初めてというぐらいなので、チンチンがついていない事に衝撃を覚える。

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海も初めてだ。

なので、海水を口にした悟空はそのしょっぱさに「なんだこの水は!」と顔を歪ませている。

 

今では様々な知識が言葉を使い、映像を使い、実際の体験をなくしてインプットすることができる。

しかし、実はそれだけでは知性は磨かれない。

体験から得られる言語化できない情報を得られないからだ。

そして、人は言語化できない情報を言語化したり絵や図式や音楽や体で表現したりすることで、思考を高め、知性を磨いていくのだ。

 

それが出来ない人はいくら植え付けた知識があっても高い知性があるとはいえない。

 

悟空もブルマと出会い、ドラゴンボールを探す旅に出ることで、急速にインプットとアウトプットを繰り返していくことになる。

 

悟空の知性がいかに成長していくのかも、ドラゴンボールを読み進める時に楽しめる要素だと私は思う。

「ピッコロが死ぬと神様も死ぬ」からわかる原理原則の話

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暇つぶしに勝手にドラゴンボールの解説でも始めてみる。

 

ドラゴンボールには、ピッコロ大魔王というナメック星人のやばい奴が登場する。

登場時には、ピッコロの手下にクリリンが殺されて、悟空も倒され、その強さに作中のキャラたちはもちろん、読者も恐怖のどん底に落とされた。

 

そんなピッコロ大魔王には瓜二つのナメック星人がいる。

それが神様だ。

 

神様は、自分はかつてピッコロ大魔王と同一体だったのが、分離した存在だと説明する。

正義の心でできた神様と悪の心でできたピッコロ大魔王という、両極に立つ存在なのだ。

 

分離した今でも、神様とピッコロ大魔王は一心同体のようなもので、どちらか一方が死ねばもう一方も死んでしまうという、運命共同体なのだ。

 

神様が死ぬとドラゴンボールが使えなくなってしまうという縛りプレイのため、魔封波という禁断の技を使って、ピッコロ大魔王だけを封じ込めようとする。

これはことごとく失敗して、亀仙人天津飯が死んで、神様が逆に封じ込められちゃうったりと、とにかくなんとも物凄いピンチに陥るのがピッコロ大魔王編なのだ。

 

今回は、神様とピッコロ大魔王の存在の仕方に焦点を当てたい。

この相反する両極の存在が、一方が存在しないともう一方も存在できないという、この世界の原理原則に基づいているところが物凄く面白いところなのだ。

 

例えば、「右」というものは「左」がないと存在できない。

「上」というのも「下」がないと上にはなれない。

 

「正義」というのは「悪」がいないと存在できない。

だから、自分の正義を主張したり、自分が正義の味方になりたい奴は、悪を生み出す。

悪者がいないと正義の味方はできないのだから仕方がないのだが、ある人が正義の味方になりたいがために生み出された悪者は果たして本当に悪者なのだろうか?

 

実はこういった構造は社会のありとあらゆるところでみられる。

裕福な人がいるためには貧しい人が必要で、その逆もまた然り。

賢い人と馬鹿な人は表裏一体で、どちらかが消えればもう一方も存在できなくなってしまうのだ。

 

なぜか?

100円玉でもいいからコインを見てほしい。

コインには表も裏もある。

表も裏もどちらも同じコインであることは間違いない。

では、コインの裏だけを消すことはできるだろうか?

コインの裏を消そうとすれば、表まで消してしまうことになるだろう。

 

これが原理原則なのである。

 

いわゆる一元論というものだ。

ドラゴンボールにはこういった原理原則がちゃんと組み込まれている。

それも名作を名作たらしめる所以だろう。

 

暇つぶしにこんなドラゴンボール解説をこれからやっていこう。