人生は暇つぶし

人間の一生はただの暇つぶし。どうせ暇つぶしするなら、より楽しく、面白くすれば幸せ!そんな暇つぶしのための「心技体」をシェアしているブログ。毎朝8時更新!

「新型コロナは茶番劇」23人宴会した厚労省からのメッセージ

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厚労省の官僚が23人で宴会していたことで叩かれまくっている。

厚労省が新型コロナを茶番劇だと考えている証明であるし、まぁ、菅義偉も会食したりしていたので、結局はそういうことなんだということだ。

こいつらが会食しようが宴会しようがしまいが、そんな事はどうでもいい。なぜなら自分の人生には1mmも関係しないからだ。

これを批判している奴らは全員、他責思考なだけ。

羨ましいと思うなら自分もすればいい。我慢するのもしないのも、全ては自分がした選択なのだ。それをあーだこーだと他人のせいにしてグダグダと文句を言っても仕方がない。なにも人生は好転しない。

 

ということで、暇つぶしにツイッターランドで見かけた愚民どもの声につっこんでみた。

「多くの人たちが、謝恩会や歓送迎会、花見なんかを我慢してる中でのこれは流石にダメでしょ」

→皆んな我慢しているから、お前も我慢しろ理論ってマジでクソ。ただの同調圧力。我慢しているのは我慢している本人の勝手。我慢したくなければするな。

 

「もう我慢する必要はなくなった」

→初めからする必要がない件

 

「仲間を送り出したかった?
そんなのみんな同じで、みんな我慢してるのですが?
うちの娘
たった17人のクラスで卒業謝恩会が出来なかった気持ちを考えて下さい。」

厚労省から「我慢しなくていいんですよ」とメッセージが出されたんだから、これからは出来るよね。出来なかった人の気持ちを考えろ理論でいくといつまで経っても何も出来ない。我慢することを選んだのはそいつの責任なのだ。他人の人生を生きる事は誰にもできない。自責で生きろ。

 

「なんかほんとに子供はどんだけ我慢してるか考えてほしい。大人達のこーゆー身勝手な行動で卒業、入学、運動会、遠足、大切な行事が縮小されたり中止したり。親は生で子供の晴れ姿を見ることもできなかったり。今何が大事なのかこの人たちだけではなく大人はみんな考えて行動するべき。」

→子どもに我慢させているのはバカで愚かな大人たち。新型コロナは茶番劇なのでそんな我慢をさせなくていいんですよ〜というメッセージなんだから、素直に受け止めて、早く子どもたちを解放してあげればいい。それが大事なことだろ。自分が子供を我慢させておいて被害者ヅラする奴ら反吐が出るわ。

 

「流石は無能厚労省、全員感染しても入院拒否されて自宅で死んでほしい!」

→そんなリスクがないから宴会してるんだよね。

 

新型コロナは茶番劇。

もうそろそろ茶番劇やめたらいいよ。

なぜ日本語が読めない人がいるのか?

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「日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない」

日本人の3分の1は日本語が読めない、それでも先進国のなかでは優秀という事実[橘玲の日々刻々] | 橘玲×ZAi ONLINE海外投資の歩き方 | ザイオンライン

 

もちろんこれは識字が出来ないという意味ではない。読解力が無いということだ。

演繹や帰納が理解できない論理的思考力が低い人たちはなぜ生まれてしまうのか?

また、そこに書いてもいないことを勝手に生み出して、それが正しいと思い込み、書き手が書いてもいないことを書いていたかのように押し付けてくる輩はなぜ生まれてしまうのか?

それは、感想や意見と事実を分けて考えられないからだろう。

ツイッターランドのクソリプがまさにそれだ。

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この画像の例だと「砂糖って甘いんだよなぁ」が書いてある事実で、それ以上のこともそれ以下のことも書かれていない。

そこに書かれていること以外は読み手の感想や意見なのだ。

日本が読めない人は自分の意見や感想がすべてで、それだけが正しい世界だと考えているのか、書き手の事実に自分の意見や感想を勝手に組み込んでくる。

「砂糖って甘いんだよなぁ」を読んで、どんな感想や意見を持とうがそれは読み手の勝手だ。

ただ、それは自分の意見や感想なのであって、他人は違うかもしれない。というか、他人と一致することの方が珍しいだろう。

そんな自分勝手なものを書き手に押し付けるから、日本語が読めなくなってしまうのだ。

書き手は読み手の感想や意見を書いているわけではない。

これはとてつもなく重要だ。

事実と感想や意見をごっちゃにしている人は会議でも、商談でも、ビジネスの色んなシーンでマジで邪魔になる。

報告してくることはどこまでが事実でどこまでが意見なのかわからなくて意味不明だし、提案してくることはボヤっとしていて何を話しているのかよく分からないので相手に刺さらない。

 

事実と自分の意見や感想は分けて考える。

そうしないと日本語が読めない残念な奴になってしまう。

無能は他人の時間を奪い、有能は他人の時間を増やす

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無能な人の特徴にクレクレ君というものがある。

自分では何も調べず、何も行動せず、何も考えようともしないクズだ。

このどうしようもないクレクレ君は他責思考なので、すぐに他人のせいにする。

自分から勝手に絡んできて「あなたが根拠を示すのが当然だと思います」と言ってきたりする。ネット版当たり屋みたいなもんだ。

当たり屋は悪いことをしていると思っているからまだ可愛気があるが、クレクレ君は悪いことに自分が正しいと信じきっているから始末に負えない。

通常、他人を動かすのであればその対価を支払うものだが、クレクレ君は当然ながらそんなものを支払うつもりはないし、タダでやってもらって当然という態度をとる。対価を支払えと言えば「金に汚い奴め」とか「ケチ野郎」とかぐらいの悪態をついてくる。

そうやってクレクレ君はとにかく他人の時間をただただ奪ってくる。

逆に優秀な人は他人の時間を生み出してくれる。ツイッターランドにも「根拠を示せ」と言ってくるのでは無くて、関連ツイートやブログ記事を読んで、内容をまとめた上で意見をしてくれる素晴らしい人もいる。

こういう人は他人の時間を奪わずに増やす人だ。

業務を合理化したり、思考を飛躍させたり、クオンタムリープ(非連続の成長)を生み出したりする。

世の中で有能とされる人は間違いなくクレクレ君ではなくて、時間を生み出す人なのだ。

クレクレ君と遊ぶのは暇つぶしにはもってこいだが、有意義ではないので、あまり付き合わない方がいい。

時間を他人に奪われると、自分のための楽しくて素敵な暇つぶしが出来なくなるので。

「分析とは比較」が分かるだけで優秀な人材になれる

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分析とはなにか?それは比較することだ。

これが正しく理解できて、正しく比較できれば、非常に優秀な人材になれる。

Twitterを徘徊していると、本当に酷いぐらいに数字を正しく比較できない輩ばかり。

一般的に優秀とされる医者であってもそうなのだから、本当に笑けてくる。

 

例えばこれとか。

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このイスラエルの感染者(本当はただのPCR検査陽性者数だけど)の推移グラフだけを見れば、たしかに素晴らしい結果が出ているように思える。

しかし、数字というのは比較して初めて意味をなす。

「日本も早くこうなりたい」というが、本当にそうなのか?と、疑問に思えるかは分析の素質としては非常に重要なのだ。そう思えないと分析が始まらないので。

イスラエルの人口は888万人。これは大阪府(882万人)と同じぐらいの人口だ。

イスラエルの累計感染者数は83.1万人。人口のおよそ10%が新型コロナに感染している。死者数は6000人程度で人口の0.72%。直近の新規感染者数は500〜600人ぐらい。高齢化率は12%程度だ。

日本は累計感染者数46万人。人口のおよそ0.38%が感染している。死者数は9000人程度で人口の0.0075%。直近の新規感染者数は2000人ぐらい。高齢化率は28%で世界一位。

では、イスラエルの感染状況を日本に直してみるとどうなるのだろうか?

 

日本の累計感染者約は約1200万人。死者数は86万4000人。直近の感染者数は7000人程度で推移。ピーク時は7万人ぐらい。高齢化率が高い日本では、もっと死者数が多いかもしれない。

 

イスラエルの様になっていいのか?

本当にワクチンに効果があるといえるのか?

 

ちなみにこういう数字を示さずに話す論外な奴も多い。

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リプ欄とかは果てしなく無能な奴らしかいないので、正しい分析が出来るだけで非常に優秀な人になれるのは間違いない。

「空気を読めよ」というなかで成果なんぞ出せるわけがなかろう

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2020年度がようやく終わる。

この1年の成果がどうだったかと振り返りがある人も多いだろう。

通常の会社であれば「どんな成果をあげたか?」が、評価につながるわけだが、仕事によっては積極的に集客や販促ができなかったわけだ。

それは何故かと言うと、やろうとしても会社が「空気を読め」ということでNOを突き付けていたからだ。

密を避けろ。自粛しろ。安心安全が優先。出歩くな。不謹慎と思われる言動を慎め。会食するな。

まぁ、色々あったわけだが、会社が「空気を読め」という指令を出しているのだから、従業員もいかに空気を読めたかが評価になるってもんだ。

会社が空気を読む方に突き進んでいるのに、従業員だけが空気を読まずに成果に振り切るなんてことはあり得ない。

2021年度は空気を読むことを会社がやめて、さっさと楽しいビジネスをすれば良いだろう。

空気を読む無能な経営者がいる会社はさっさと消えてなくなった方がいい。

ただ、社会全体が「空気を読め」でも、会社からの指示が「空気を読め」でも、空気を読まずに突き進めば成果を出せるということを個人としては忘れてはならない。

「どうせ私はやるから」と一人でも戦う意思決定している人は強い

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イノベーターと呼ばれる人がいる。

誰よりも先駆けて、革新的な取り組みを生み出したり、取り入れて実践したりする人だ。

私が会ったイノベーターは非常に優秀なマーケターで、周囲の批判も跳ね除けながら突き進む女性だった。

国際的なイベントプロジェクトにも携わる彼女は日本の現状をより良く変えるためにはどうすればいいのか?という問いと向き合っていた。

彼女の視座は非常に高く、視野はとてつもなく広い。だが、その辺にいる日本人のオッサンはどうしても悪い意味での日本基準で物事を考え、欧米憧れ根性から欧米で生まれたモノをアジャストせずに日本に輸入する。例えば昨今のSDGsなんかはまさにそれだ。

彼女はそんな思考停止なオッサンたちにそれじゃダメだと諭し、どんなインフラシステムを整えれば持続可能なより良い日本、没落していかない日本に変えられるかを必死に熱弁する。

当然、思考停止なオッサンどもは「そんなことができるわけがない」だのなんだのと批判をするわけだ。

そんな時、彼女の答えは一貫していて「いいよ。あなた達がやらなくても、どうせ私はやるから」と言うのだ。

この意思決定ができている人は本当に強いし、実行スピードが全然違う。とてつもなく早いのだ。

 

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いわゆるキャズムを超えてこれないアーリーマジョリティ以下は置いていく。

着いて来れる人(アーリーアダプター)とは一緒にやりたい。だけど、そうじゃない奴らを待っていると本当にスピードがどんどん鈍化してしまう。

受け身な奴らはいらない。主体的に関わる人だけと付き合う。そして、最終的に自分一人だろうが私がこれをやると決めたことはやる。とてつもなく合理的でシンプルで機能美に徹したデザインだ。

人生は所詮暇つぶしだが、暇つぶしができる人生の時間は限られている。

自分のやりたい事は一人でもやる覚悟をもってやれば良い。

その意思決定が出来る人は究極に強い。

「質問力」の正体

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ビジネスにおいて「質問力」はとてつもなく重要な能力だ。

これがない奴は質の高いアウトプットができない。

営業は顧客に対して適切な商品の提案ができないし、開発陣は潜在ニーズにリーチした商品が作れない。マネジャーは部下の課題も把握できないし、人事はより優秀な人材を採用できない。

質問力だけがあれば解決するわけでもないが、質問力がないと始まらない。

 

質問力のない奴はまず質問ができないので、自分の話ばかりする。営業では自分が売る商品がいかに素晴らしいかをダラダラと話し、エンジニアは自分がいかに優れたものを開発したかを自慢し、マネジャーは自分の過去の武勇伝と自分がいかに偉いかを一方的に伝え、人事は採用面接で自社がいかに素晴らしい会社かをうそぶく。

そして、質問をし始めたら、横の質問ばかりをする。年齢は?出身地は?趣味は?将来の夢は?最近読んだ本は?好きなスポーツは?好きな食べ物は?休日は何してるの?恋人はいるの?最近気になったニュースは?インスタやってる?まぁ、こんな感じの質問だ。

質問にストーリーがない。脈絡がない。それを聞いてどうすんの?って質問ばかりを延々とダラダラとし続ける。

 

では、良い質問とはなにか?

「質問力」の正体とはなにか?

 

質問力の正体とは「仮説力」だ。

仮説を立てて質問をすると、質問にストーリーが生まれる。縦に深く掘っていく質問になる。

この質問ができると営業は顧客が本当に望んでいる商品を売れるし、開発陣は顧客たちが気づいていない潜在ニーズに訴求できる革新的な商品が作れるし、マネジャーは全体最適化ができるし、人事は最高にマッチした人材を採用できる。

 

営業やってて、仮説も立てずに商談に行く馬鹿がいるらしいが、そんな商談はやるだけ無駄だ。家帰って寝た方が時間の有効活用になる。

仮説とはゴール設定をすれば必ず生まれてくるものなので、仮説を立ててない奴はそもそもまずゴール設定ができていない。

立てた仮説が甘い奴も多い。これは予備知識が無さすぎるので、仮説を深く掘り下げて考えることができないからだ。知識や言葉が少ないせいで因数分解の粒度が細かくならない。

まったく知識や言葉を持ち合わせていない事象に関しては、好奇心や興味関心がモノを言う。まぁ、好奇心や興味関心がある人間は知識や言葉が自然と豊富にはなるので、まったく知らない分野の話でも瞬時に仮説を立てて質問ができるとも言えるが。

 

質問力が高い人は人生も楽しく暇つぶしできるので、ぜひ鍛えるべし。

【シン・エヴァンゲリオン劇場版を観た感想】人類補完計画とは陰キャラの希望だった【ネタバレ注意】

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エヴァンゲリオンとは、スーパー陰キャ碇ゲンドウが拗らせに拗らせた陰キャラ根性を発揮した話だった。

(ちなみにこの記事では考察とかは一切しないので悪しからず)

しかし、碇ゲンドウの気持ちはわからんでもない。

他人と必要以上に関わりたくないとか、一人でいた方が楽とか。これは本当によくわかる。

アドラー心理学では、あらゆる悩みや問題は「他者との関わりがあるから生まれる」としている。これは本当にその通りだろう。宇宙でたった1人であれば、悩むことも課題が生まれることもない。それどころか幸福も不幸もないし、良いも悪いもない。(昨日のブログ記事でも書いたけど)

他人と関わるよりも、知識を欲して本を読み、自身でコントロールできる楽器を奏でる。

そんな他人と関われないコミュ障の陰キャラが、たった1人の女性に愛され愛してしまったら、そりゃその沼から抜け出せないよ。

沼から抜け出せないのに、さらにその愛している女性を失ってしまうとどうなるだろうか。もう一度会いたいと願ってしまうのだ。

そういえば「鋼の錬金術師」のエルリック兄弟は母親を錬成しようとして真理の扉を開けて身体を持っていかれたけど、死んだ人と会うにはその対価を支払う必要があるみたいだ。

まぁ、碇ゲンドウが考えたのは皆んな1つになってしまえ!ってことだった。それが人類補完計画

人類補完計画によって、皆んな1つになってしまえば、ユイにも会えるし、自分も他人もなくなるから他者との関わりから生まれる全ての悩みや課題、問題も消えてなくなる。陰キャラにとっては最高の望みが叶えられるってもんだ。

そんな陰キャラ根性を拗らせに拗らせまくったオッサンのおはなし。鋼の錬金術師のお父様にも良く似た節があるように思った。

小学生の頃にテレビアニメ版を観てから25年かけての完結作(?)。

また観る時期によって感想も変わるんだろうな〜。

この宇宙にあなた1人だけなら存在していないも同じ

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「人は本来、他者の介在があって初めて存在し得るものだということを難民に教えられた。」

(クゼ:攻殻機動隊

 

人間は相対的にしか物事を判断できない。それは良し悪しとかだけではなく、そのもの自体がなんなのかすらわからない。

日本酒には「山廃仕込み」というものがある。この山廃仕込みとは一体なんなのかを説明するには、山廃仕込みではないものと対比しなければならない。

「生酛造りにおける山卸しの過程を廃止したもの」が山廃仕込みだ。

生酛というのは酒母の造り方で、昔ながらの製法。酒造りに必要な乳酸菌を自然の力で培養する。最近の主流は速醸酛と呼ばれて、こちらは乳酸菌を工業生産したものを投入する。

山卸しとは乳酸菌を培養するために米や米麹をすり潰す工程のこと。この工程を無くして、酵素の力で米を溶かすのが山廃仕込み

乳酸菌を長い期間かけて培養し、発酵の最後まで乳酸菌が生きている山廃仕込みや生酛造りの酒は、「コクが深い」とか「芳醇な味わい」といった具合に表現される。これはもちろん速醸酛など他の酒と比べた時の評価だ。

もしこの世の中に山廃仕込みの酒しか味のする物がなかったら、その味を表現する言葉は生まれなかっただろう。

それと同じように、この宇宙にもしも自分しか存在しなければ、幸せも不幸もない。喜びも悲しみもない。忙しいも暇もない。恥じらいもなければ自慢もできない。なにもできない。なにも感じない。存在していないも同じ。

人生の暇つぶしをできるのも誰かがいてくれるからなんだな〜。

裏も表もどっちも同じコイン

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コインには裏面と表面がある。

どちら同じコイン。どちらかだけでは成立しない。

幸せじゃないとか、悲観的なことや悪いことばかり言う人はコインの一面しか見ていない。(逆も然りだけど)

良いことも悪いこともどちらも同じ世界。その世界をどう切り取って観ているかだけの違い。

二元論ではなく、すべては一元のもの。

お金がない。時間がない。才能がない。色んな不足を見つけやすいけど、「ある」にフォーカスしてみるだけで世界は変わって見える。

それはコインをひっくり返すだけの簡単な作業。

コインをひっくり返して物事を考えるだけでいい。

それだけで視野は広がるし、世界は違って見えるし、人生の暇つぶしが楽しくなる。

無能はイメージで語り、有能は真実を語る

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イメージで語る人がいる。

イメージで語る人というのは論理的・科学的に物事を考えられないし、歪んだ形で世界を見ているし、真実と事実と意見を分けて考えることもできない、要するに馬鹿なので、本当にイメージで語るのは今すぐにやめた方がいい。

 

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例えばこのツイート。

「相当数」とか「すごく少ない」という言葉が出てきている。

ビジネスでもこういう風に、報告・共有・相談・提案してくる輩がいるのだが、本当にやめてほしい。

例えば「多い・少ない」という言葉。この言葉だけでは、ただの主観的な意見でしかない。人によって多い・少ないの基準は違うし、イメージするものも変わってくる。人間は相対的にしか物事を理解できない。なので、何に対して多いのか、少ないのかを示さないとお話にならないわけだ。

例えばワクチン反対派の人を数えてみたら、確認できただけで100人いるとする。

この100人が多いか少ないかは、比べる数字によって変わる。こんなことは小学生でもわかるが。

ワクチン賛成派が1000人いれば少ないし、逆に賛成派が2人しかいなければ多いとなるわけだ。

多い少ないを語るには、具体的な数字と比較している対象を示さないと「本当にそうなのか」がわからない。

でも、仕事ができない無能なバカは数字を示したり、比較したりせずに自分のイメージだけで「多い・少ない」みたいな言葉を使ってしまう。誠に残念だ。

始まりは「100人もいるのか多いな」でもいい。ただ、そこから「本当に多いのかな?」という疑問や好奇心や探究心が生まれてこないのは不味い。思考停止しているからだ。

有能な人はイメージで語らずに「本当にそうなのか?」を追求しているので、イメージで語る奴と出くわすと、「あぁ、こいつ無能な馬鹿だな〜」と瞬時に判断できてしまう。

 

イメージだけで語らずに、本当にそうなのか?と事実ではなく真実を追求できる人はやはり有能だな〜。

給料分の働きを従業員がしないのは、マネジメント側が無能だから

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「お前たちには給料分しっかりと働いてもらう」

攻殻機動隊の荒牧の言葉だ。

 

給料とは、貰う側にとっては明日(もしくは毎月)また働きに出てこれるだけのメンテナンスが出来る報酬でしかない。

家で寝られる。風呂に入れる。ご飯が食べられる。服が買える。

そういった、また仕事に出勤できるものが調達できるのが給料だ。

 

では、経営者や経営陣、マネジメント陣が期待する給料分の働きとはどうなのだろうか?

正直言って、給料を貰ってる側に取ってはそんなもんどうでもいい。

むしろ、より楽して同じ給料が貰えるならその方が良いのは当たり前のことだ。

毎月30万円の給料で頑張った奴もサボった奴も同じなら、誰でもサボるわけ。

いやいや、サボってたら評価が下がって給料上がらないし、なんなら下がるよねって思うかもしれない。

ただ、下がるにしてもレンジがあって、正社員ランク2から1に下がったとしても、それでも契約社員の最上位よりも給料は高かったりする。

で、この正社員と契約社員がやっている仕事が違うかというと、実は同じだったりする。なので、契約社員が正社員と同じ仕事を同じクオリティでしていても、正社員の方が給料を高くもらっているし、正社員がサボっていようがいまいが契約社員よりも給料は高かったりするのだ。

 

この状況だけを見ると、「おいおい、正社員はもっと成果を出せよ!」とか「契約社員の給料分を上げてやれよ!」と思ったりする。

しかし、実はそれは本質ではなくて、問題なのは正社員にさせている仕事なのだ。

給料の高い正社員に対して給料分の仕事をさせていないのが問題なのだ。

 

従業員が貰っている給料とは、明日もまた働きに来れるだけの費用なので、会社の成果とかは特に関係ない。会社が儲けようが儲けまいが関係のないことなのである。なので、与えられた仕事を最低限の力でこなせばそれでいいのである。

従業員のスタンスはこれでいい。非の打ち所がない。

問題なのは雇用主やマネジャーだ。

従業員は当たり前に最低限の力で働こうとするのだから、それをちゃんと考慮しなくてはならない。

時給で1000円払うなら1200円の売り上げが上がるようにしておくのは、雇用者側の責任なのである。

仮に1000円で仕入れた商品が900円でしか売れなくても、それは商品を卸した側の責任ではなく、販売している奴の責任なのだ。

従業員は労働力を商品にしているので、それで給料分の働きをしていないということであれば、どう考えても雇用者側の責任なのだ。

 

年収1000万円プレイヤーと300万円プレイヤーに同じ仕事を任せて、1000万円プレイヤーが300万円プレイヤーと同じ仕事しかしていないとしたら、それは1000万円プレイヤーが悪いのではない。任せている仕事が間違えているのが問題なのである。

これに気づいていない企業は死ぬほどある。恐ろしいほどに。

 

攻殻機動隊の荒巻のような優秀なマネジャーであれば、そんな馬鹿で愚かなミスはしないだろう。

他人に期待した奴の末路

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あいつは遅刻しないだろう。

資料ぐらい用意してくれるだろう。

次のミーティングまでに意見をまとめといてくれるだろう。

そういった期待を持つ奴がいる。

 

他人に期待をしても、ハッキリ言って無駄だ。

自分にコントロールできるのは自分の行動だけなので、他人をコントロールすることはできない。

そんな自分にコントロールできないものに期待をしてしまうと、期待が外れてしまう。

期待が外れてしまうと、なぜか期待をしていた人間が怒る。失望した!とか、残念だ!とか、なんでこんな事もできないんだ!って。勝手に期待していたにも関わらずだ。

自分でコントロールできないものに期待してしまうことで、怒りが生まれ、ストレスになる。人間は自分の思い通りにいかないとイライラとしてしまう生き物なのだ。

当然、上手くいかないことも出てくる。進捗が悪くなる。失敗も増える。なんならプロジェクトとかが始まらなかったりする。

他人に期待していると、そういった上手くいかないことを他人の責任にしてしまう。あいつがちゃんとやらないから上手くいかないんだ!と。

なんとも勿体無い話だ。時間が本当に勿体無い。

そんな楽しくないことに人生を費やするって馬鹿じゃないか?

自分の大切な時間を他人を軸に進めてしまうってアホじゃないか?

 

ザーボンさんやドドリアさん、ギニュー特戦隊に期待したフリーザ様は結局死んでしまう。

 

人生は暇つぶしだけど、だからこそ楽しまないと損だよね。

他人に期待していたら自分の人生は楽しめないよ。

「会議で発言しない奴が悪いんじゃなくて、会議で発言させてないお前が無能なんだろ」って話

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最近こんなことを聞いた。

「ミーティングしてても、あいつら全然意見を言わない。それで意見を求めたら5分ぐらい沈黙。挙げ句の果てには、なんでそんな事を決めなきゃいけないのかわからないって言われた」

新規開拓を今より良くするためには?が議題の会議に出席していた8名のうち、3名がとにかくダメダメで全然レベルが低いとのことだった。

自発的には意見も言わないし、話しを振っても沈黙してるし、それならとやる事を決めて伝えたらそれは嫌だと拒否されるし、的外れな意見が出てくるらしく、もうとにかく散々だったそうだ。

そんな3名と私がファシリテータを務めた別のミーティングで一緒になった。

とある地域の販売が伸び悩んでいて、どうすれば良くなるか?というテーマだった。

このミーティングでは、その3名も非常に活発的に意見を出して、行動目標を定めて、そのタスクをこなす為に自発的に動いていた。

 

一体なにが違うのか?

 

いい会議にならないのは、参加しているメンバーのせいではなくて、その会議の仕組みが悪いのだ。

人数が多すぎるとか、無理に発言を求め過ぎているとか、ざーっくりとした大枠だけを伝えているとか、司会進行能力が低いのにフレームワークとかを取り入れないとか。

ざっと言ってもこれぐらいはある。

何より問題なのは、悪い会議のオーナーが自分は悪くないと信じ切ってしまっているのが問題だ。

自分は悪くないと信じ切ってしまっていると、上に挙げたような問題を解決しようとしなくなってしまう。

人数を減らせば自ずと当事者意識は高まり、自己重要感も高まり、発言量も増える、

大した意見も無い人間に無理に意見を求めても、意見を求められた人間は恥をかかされたと感じて意見を求めた奴を憎んで終わる。なので、意見は無理に求めてはいけない。

そもそも意見が出てこないのは質問やテーマが悪い。例えば「どうすれば良くなるか?」だと、話がデカすぎて解像度が低い人間にとっては意見が生まれにくい。

ざっくりした質問にはざっくりとした答えしか返ってこないのは当たり前。意見が出てこないなら、もっと因数分解して具体的な質問や議題にしないといけない。

じゃあ、どうやって会議のなかでざっくりとしたテーマから因数分解をおこない、考えられるレベルまでに落とし込んだ具体的な質問を投げかけて、意見を生み出してもらうのか?だが、それがわからなければフレームワークを使えばいい。世の中にはPDCAやらMECEやらKPIツリーやら、いくらでも先人たちが築き上げてきたフレームワークや思考法がある。

そういったものを取り入れずに、大した能力もないのに思い上がっているのか何なのかわからんが無名のただの雑魚サラリーマンが素晴らしい会議を出来るわけがないと思えないのが残念でならない。

くだらない会議ほど無駄な時間はない。人生の暇つぶしを最高のものにするには無駄をとことん省かないといけない。

クソみたいな会議は無くさなければいけない。

デザイン思考はビジネスでとてつもなく役に立つ

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デザインとは機能美に徹すること。

無駄を極限にまで削ぎ落としたものこそカッコいい。

そして、陳腐化しない。

機能美に徹しきれていないものは、本来は必要ない装飾で取り繕う。

だから、陳腐化してしまう。

速さを求めたマシンがカッコいいのは、格好良さを求めたからではない。

純粋に速さだけを追求したデザインをしたからカッコいい。

制約のあるなかで最適化を図り、精錬されていくから、さらに機能美が研ぎ澄まされていく。

なんでもありだと、デザインは逆に難しい。

そういった機能美に徹したからこそ、100年でも1000年でもそのままの形で受け継がれていく。

ビジネスでも「デザイン」がとてつもなく重要だろう。

どうデザインするか?

いかに無駄を削ぎ落とせるか?

いかに目的を遂行するためだけに徹し切れるか?

いかに制約のなかで最適化できるか?

デザインから学ぶことは多い。