人生は暇つぶし

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「教育の本質」は子どもをナメるなってこと

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「正しいコミュニケーションを教えるよりも、コミュニケーションの楽しさを教える」

視覚も聴覚も失った7歳の少女ヘレン・ケラーに、言葉を教えた(言葉だけじゃないけど)アン・サリバンはそんな感じのことを言ったらしい。

 

教育の本質だと思う。

どうしても教育者は「正しい」を教え込もうとしてしまいがち。

正しい英語、正しい数学の解き方、正しいExcelの使い方などなど。

でも、そんな事よりもそれを使ってできることの楽しさが伝われば、学ぶ意欲は自然と起きていくので、勝手に教わっているものだ。

 

正しさを押しつけてしまうので、学びが面白くなくなってしまうのだ。

 

ヘレンはアンと出会う7歳まで言葉を知らずに育った。

アンに出会い、言葉があることに気づき、使えるようになってからはコミュニケーションが楽しくて仕方がなかっただろうと思う。

もちろんそこに至るまでの物凄い苦闘があったし、無音の暗闇の世界からヘレンは脱出できたんだと思う。

 

ただ、ヘレンがコミュニケーションの楽しさを覚えるよりも前に、正しさを教え込まれていたら、もしかすると言葉を学ぶことをやめていたかもしれない。

コミュニケーションの楽しさを知ったから、言葉を学ぶ意欲が湧いてきたのだろう。

 

 

さらにアンは自分もそうだろうが、周りの大人たちふくめ、ヘレンに対してわざわざ簡単な言葉を使うことを禁じたらしい。

これは大人が子供と話すときについついやってしまうことだ。

極端な例でいくと「車」を「ぶーぶー」と言ったりすることだ。

どこかで子供は「車ってなにー?」となるので、「ぶーぶーは車のことだよ」って伝えなければならない。

そういった子供向けの言い回しは沢山あるし、子供向けの言い回しだけではなくて、簡単な言葉と難しい言葉はある。

アンはそういった難しい言葉も躊躇わずに使うように周りの大人達にも伝えていた。

難しい言葉を受け取ることでヘレンは学ぶことができたのだ。

簡単な言葉ばかりを受け取っていても成長がないし、そもそも子供は難しい言葉でも理解できる能力がある。実際にヘレンは10歳で大人顔負けの手紙を書いている。

 

子供をナメるなってことなんだろう。

受け取るものがハイレベルなものであれば、子供はしっかりとそのレベルを受信できて、自分のものにしてアウトプットする能力を持っているのだ。

 

わざわざ正しいものを教え込まなくても、自然と正しさも身につけていくのが子供なのだろう。

 

楽しさを伝える。

よりハイレベルで本物を伝える。

 

それが教育の本質なんだろうと思う。

君はビジョンを描けるか?

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以前に「活躍できる人材になるためには」をテーマに書いた。

まずは幅広い基礎知識を身につけましょうという話だった。

 

今回はその続きで、「ビジョンを持ちましょう」という話だ。

 

ビジョンとは何か?

それはきっと成し遂げたい何かだと思う。

私はよく「絵が描けているか?」を問うている。

 

こうなったらいいな〜とか、こんな風にできたらオモロいな〜みたいなイメージが具体的に湧けば湧くほどに、それは現実化しやすい。なので、実際に現実化できることが多い。

 

どうすればビジョンを描けるのか?

どうすれば鋭く面白いビジョンを描けるのか?

 

ビジョンを描けるかどうかは、幅広い基礎知識があるかどうかに由来する。

本を読み、人に会い、旅をして、たくさんの経験値を積んだ人でないとビジョンを描くのは難しいと思う。

そういう経験を積もうとしない人には好奇心が足りていないし、冒険心やチャレンジ精神もない。

 

牛角を創業したフードビジネス界の天才経営者、西山和義氏がこんな事を言っていたことがとても印象的だ。

「月に行けたのはロケットが出来たからじゃない。月に行こうと決めたからロケットが出来たんだ」

 

まず月に行こうと思えるかどうか。

これがビジョンを描けるかどうかなのだ。

 

月は見えているからいいのだが、活躍する人たちは凡人には見えていない場所に旗を立てて走り出していく。

その場所が見えるようになるためには、まずは幅広い基礎知識が必要なのだ。

なぜなら現状を適切に把握できない。

現状が正確に把握できなかったり、違う分野などで成功しているネタや失敗しているネタを知っていなければ「もっとこうした方がいいんじゃね?」みたいな今以上の事を思いつけない。

 

また細かく書いていくが、現状把握する知覚能力や知覚したものを吐き出す思考能力。因数分解と多面的な視点で物事を見れる課題発見能力。変異パターンを駆使してイノベーションを起こす課題解決能力。

そういった能力が備わっていて初めて、鋭く面白いビジョンを描ける。

 

鋭く面白いビジョンが描けてしまえばあとはギャップを埋めていくだけなので、まぁ80%ぐらいは終わったようなものなのかもしれない。

無能な奴の有能な者への道のりは己がカスさを知りて1歩目

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三蔵法師玄奘といえば西遊記で有名な人だ。

唐の時代にインドまで経典を取りに行ったことで知られているお坊さん。

彼は地球1周半ぐらいの距離を16年かけて旅した。

罪を犯して国を脱出して、灼熱の砂漠で死にかけたり、極寒の雪山で死にかけたり、道中の王様に処刑されかけたり、山賊に襲われたり、せっかく集めた経典をインダス川で船が転覆して失ってしまったり、まぁとにかく大変だった。

そんな大変な旅を16年もして、中国に帰った後、死ぬまでの19年間を翻訳作業に費やした。

彼が翻訳した般若心経や大般若経は今でも我々がその恩恵を享受できる。

まさに全身全霊の命をかけた事業だったのだ。

そんな玄奘はインドへ旅立つ前には、手に入る書物は読み尽くしていて、非常に優秀な僧として人気だったらしい。

 

 

話はガラッと変わって、つい先日のこと。

こんな相談というか愚痴を聞いた。

その人は優秀な営業職の女性。

同僚の仕事のできない男性達から「女はいいな〜」といった節の妬みを言われたそうだ。

営業で結果を出しているのが、女を武器にしているからだと思っているらしく、自分の方が実力は上だと勘違いしているぐらいに馬鹿らしい。

ちなみに女性は25歳ぐらいで男性は30歳前半だ。

まぁ、そんな事を言ってる時点でマジでクソ野郎なので、本当にどうしようもないのだが、問題は本人達がそれに気付いていないところだ。

「俺も女だったら」

「俺もお前の役割だったら」

「今よりもっと結果出せているのにな〜」

こういったセリフはいわゆる他責思考ってやつだが、こればっかりは本当にどうしようもない。

自分の責任で物事を考えられないのでいつまで経っても最長がない。

まぁ、そもそもがカスで無能な人間なのに、さらには可能性の中に生きてしまっているので、救いようもないのだが。

 

ただ、この男たちだけがカスで無能なわけではなく、まぁ世の中の人間というのは大体がそんなものなのだ。

それなのに、「自分は成功するかもしれない」とか「こうすれば大物になれる」とか考えているのが本当に無謀なのだ。

 

三蔵法師玄奘のように死ぬほど勉強して、中国では学ぶことが無くなり、翻訳された経典ではなく原典に当たりたいと思い、命をかけた旅に出て、その後死ぬまでの20年近くをかけて翻訳作業に没頭する。

そんな事ができる人が成功を手に出来るし、偉人になれる。

 

なので、自分はそもそもカスで無能なのだと気づかなければ、学ぶこともしないし、経験値を増やそうともしない。自分がカスで無能だと気づかなければ、ただただ他人を羨み妬み、足を引っ張り、不幸を喜ぶだけの人生になってしまう。

アドラー的に言えば他人の人生を生きているというやつだろう。

 

自分の人生を生きるには、まずは今の自分はそんなに大した奴じゃないことを知ることから。

そうしないと何も変わらないのだ。

「活躍できる人材」になるためには?

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将来、活躍できる人材になるために出来ること。

そんな事があるのだろうか?

 

10年前に新型コロナでここまで社会が変化することを予測していた人がいるだろうか?

20年前に誰もがスマートフォンという高性能PCを持ち歩いて、YouTubeNetflixを見たり、自ら配信したりすることを予測していた人がいるだろうか?

30年前にテレビ、新聞、雑誌がここまで凋落することを予測していた人がいるだろうか?

車や家電といった日本の主力産業が海外製品に駆逐されることを予測していた人がいるだろうか?

 

未来は誰にもわからないのは当たり前なのだが、今はより一層に予測が難しい。連続性のない未来、つまりは「非連続な未来」が短いスパンで到来している世の中だ。

 

そんな状況下では大企業に勤めれば安泰とか言って、学校の勉強を頑張り、良い大学を卒業するだけでは、沈みゆく船に乗ってただ沈没するのを待つだけの人生になってしまう。

自らが道を切り拓き、船で空を飛ぶぐらいのことをやってのけるような人でなければ、残念ながら「活躍できない人」、「使われる人」、「代わりならいくらでもいる人」になってしまう。

 

では、予測不可能な未来に対してどうすればいいのか?

特に10代のうちにやっておきたい事を書く。

 

 

幅広い基礎知識を身につける

これは学校の勉強を頑張れとかそういうことではない。

当然、学校で学ぶことをしっかりとキャッチアップして置く事は大事なことではある。

しかし、それ以上に大切なのは、子ども心に好奇心が湧く物事に触れることなのだ。

本を読む。野山で遊ぶ。植物や土や川や海や虫や動物と触れ合う。さまざまな土地に行ってみる。たくさんの異年齢の人と出会う、話す。音を奏でてみる。絵を描いてみる。工作してみる。実験してみる。

そういったことでいいのだ。

自分がやりたいと思った事をとにかく思いっきりたくさんやってみる。

それが幅広い基礎知識を身につける素地になる。

 

大人はどちらかというと、子どもにスピードを求め、答えをすぐに与えてしまう。間違いを教えてしまう。「なんで」を黙らせてしまう。

そういった環境にいると子どもは好奇心を押し殺してしまうことになる。

予測不可能な未来、我々大人の常識は通用しないのだ。

私が見てきた「活躍できない人」の特徴

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私が勤めている企業には「こいつマジか」って思うぐらいレベルの低い人がそこそこいる。

そういった人たちは活躍できないままに転職するかして消えていく。

そういった人たちが人として悪い人というわけではなく、できれば皆んなが活躍すればそれに越した事はない。

 

でも、会社は学校ではないので、教育することが本質ではない。

それに活躍する人は、教育されなくても自分で勝手に学んで、どんどん成長していく。

 

この差は一体なんなのか?

どうすれば「活躍できない人」を減らせるのか?

私は好奇心もあって考えていた。

 

そうすると数ある書籍や、人から話を聞いていくなかで「活躍できない人」の特徴がわかってきた。

 

 

知識→目的→手段

「活躍する」ということをひとつの行為と考えると、それは「知識・目的・手段」に分解できる。

適切な手段を選び、ハイレベルに実践できるか?

ハイレベルに実践できても、そもそも目指している目的・目標・ビジョンは間違えていないのか?

正しい目的を設定するための知識はあるのか?

これがすべてできていれば「活躍できる人」だし、何かが欠けていると「活躍できない人」になる。

 

幅広い基礎知識がない

幅広い基礎知識が無くて、こけている人が多い。

恐らく活躍できない人の9割はこれではないだろうか。

興味の範囲が小さい。

本を読まない。

人に会わない。

使う言葉が少ない。

色んな事を体験していない。

情報源がテレビや芸能人やSNS

同じコミュニティ、1つのコミュニティだけに属している。

家族や地元の友達、会社の同僚が相談相手。

苦手分野を克服する(凹みを少しでも減らす)努力をしない。

さらには、専門領域の知識すら浅い。

もしくは、専門領域と呼べるものがない。

この状態で社会人になると、相当な努力が必要となる。

 

分析的な思考がない

分析とは比較することだ。

なにかとなにかを比べて、なにが同じで、なにが違うかを見つけていく作業が分析だ。

定性的な分析、定量的な分析どちらも比べる事が本質なのは間違いない。

結果を報告する時や、施策を提案する時に「Aのリンゴは丸でした。終わり。」みたいな人はたくさんいる。

「AのリンゴはBのリンゴに比べて丸かったです。なぜなら、、、」みたいな報告や提案ができる人は分析的な思考がある人だ。

なぜそういった思考ができるのか?

それは幅広い基礎知識があることに加えて、仮説をもって思考する癖があるからだ。

 

仮説が立てられない

仮説を立てるというのは、知識や経験がないと立てられない。

スラムダンク桜木花道のディフェンスがザルなことを海南の牧に分析されていたシーンがある。

桜木花道がなぜディフェンスを出来ないかというと、相手の動きを予測できないから。

なぜ予測できないのかというと経験がないから。

通常ディフェンス側は、相手がどんな動きをするのか、パスか?ドリブルか?シュートか?という予測を経験から判断しているというのだ。

これは間違いなくそうで、仮説思考も同じ事だろう。

知識や経験が無ければ仮説が立てられない。

なので、分析的思考になりようがない。

 

ビジョンがない

幅広い基礎知識がなくて、分析的思考や仮説思考ができない人は、ビジョンが持てない。

どんな人生を歩みたいか?人生の目標はなんなのか?と聞いても、「美味しいものたくさん食べて、欲しいもの手に入れて、結婚して、子ども育てて、幸せに死にたい」といった返事が返ってくるぐらいで、特にこれといったビジョンが無い。

そもそも持ちようもない。

使う側と使われる側。

活躍する人と活躍しない人。

ビジョンがある人とビジョンがない人。

もう考えてもこういう括りになってしまうだろう。

 

行動しない人

そして最後に1番重要な要素。

行動しない人は絶対に活躍する人にはなれない。

なにもしていないので当たり前なのだが、たまに行動しなくても活躍できると思っている人がいるので注意したい。

考え過ぎは良くない。未来は誰にもわからない。失敗するかもしれないし、成功するかもしれない。

とにかくやってみるしかない。

考えてもわかるわけがない。

 

伝える力がない

残念なのは伝える力がない人だ。

知識もあって、分析的思考や仮説思考もあって、よきビジョンもあるのに、他人に伝えられないとかなり損をする。

 

何を言ってるのかわからない。

バカに思われる。

理解を得られない。

協力してもらえない。

 

これほど勿体ない事はない。

論理的に伝えられる。

ストーリーを伝えられる。

文脈を意識できる。

相手の立場・視点になって考えられる。

こういった伝える能力が無い人も多い。

 

 

おわりに

結論、社会人になってからだと遅い。

素地は10代で作られていくものなのだ。

「徹底的にパクる」ことは学びの基本。パクられて怒る奴はバカ

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真似をすることは学ぶことだ。

これはどんな世界でもそうだろう。

子どもは親を見て、真似をする事で学ぶ。

動物も親を見て学んでいるので、完全隔離された環境で育てられると鳴き声のパターンも変わってしまうことが分かっている。

スポーツも音楽も料理も真似をする事で学びが始まる。

ビジネスなんかでも「徹底的にパクる」ことはキホンのキだ。

 

「真似をする」というのは実際の経験が伴ってくるので、そこが一番素晴らしいところであり、難しいところでもある。

例えば料理。

この人と同じ料理を作りたいな〜と思って、真似をして作ってみても同じ料理にはならない。

徹底的にパクろうとしても、パクらないのだ。

スポーツも音楽もそうだろう。

徹底的にパクろうとしても真似ができない。

それは技術力や知覚、思考、感性が違うからだ。

何が違うんだろう?

どうして真似できないんだろう?

そこのギャップを埋めていく事が学びになるのだ。

 

で、たまにパクられて怒る人がいるのだが、あれは全く理解ができない。

徹底的にパクられてしまっているのであれば、それはそもそも大したものではない。凡庸なものなのでパクられても仕方がないのだ。

パクられたくないのであれば、誰にもパクられないぐらいに凄いものにすればいい。

ただ、自分自身の知識や思考はそもそも誰かが思い付いたものとか作り上げたものからパクったものなので、全くのオリジナルなものではない。

それを自分自身のオリジナルなものだと考えてしまい、自分はいいけれども他人はダメとする考え方がクソなのだと知った方がいい。

むしろ、パクられることに誇りを持った方がいいと思う。

そもそも価値あるものでないとパクられないし、自分のものが一番素晴らしいなら価値もあがる。

 

パクることを否定して学びを止めてしまうのは勿体ない。

自分なんていない。自分のものなんてない。

そう考えれば世界は大きく広がるな〜。

「自分は何をしたいのかわからない」はなぜ起きるのか?

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「何がしたいかわからないんですよね」

ある契約社員が、残り契約期間1年というところで言った台詞だった。

転職するにしても、次に何の仕事をしたいのか自分でもよくわからない。そういう状況の人はよく出会う。

なぜ人は何がしたいかわからなくなるのだろうか?

 

とある芸術家はそんな相談に対して、こんな風に言い返していた。

「それはただの勉強不足」だと。

なるほど。確かにその通りだ。

判断基準が無いからどうすればいいのかわからなくなる。つまりは圧倒的な経験不足なのだ。

 

例えば、いきなりコハダの寿司を握ってみろと言われても私は握れない。どうすればコハダの仕込みができるのかすらわからない。まず何をすればいいのかもわからない。

それは全くもって寿司を握った経験が無いからだ。

 

「何をしたいのかわからない」はこれに似ている。

色んな事を経験してみれば、まず「あぁ、これはやりたくねーな」って事がどんどん増えてくる。そして、たまに「お!これ面白い」とか「お!これ得意」といったものに出会う。

そうすればもう自分のしたいこと、出来ることは見つかっている。

ただ、仕事でいうのであれば、お金を稼がないといけないので、「価値提供ができるもの」でないといけない。

 

では、価値提供できるものに出会うにはどうしたらいいのか?

人生の時間は短いので、なるべく早くそれに出会いたい。

なるべく早く価値提供できるものに出会うには、手詰まりにならない準備をしておけばいい。

 

前にも書いたが、手詰まりを起こさない為には、知覚と思考、知性が必要だ。

知覚は認識=インプット力。人は知覚できるものは自身にある知識、体験からでしかない。人は言葉や知覚や体験でしか世界を認識できないからだ。味なら、なにもわからなければ「美味しい」だが、五味を知れば「旨味が濃くて美味しい」とかになる。認識が変わっているのだ。

思考はインプットをアウトプットに繋げる能力。

知性はアウトプットだと考えられる。

つまり、知性の根っこの方には基礎知識や体験がある。まぁ、色んなことを学んで、色んな体験をして知性を磨いておけば手詰まりは起こさなくなる。(それだけではダメだけど、今は端折っておく)

 

これでは結局は「色んなことを学んで経験しろ」ってことなので、時間がかかってしまう。

これを急速に時短するには3つしかない。

1つは、本を読む。

1つは、人に会う。

1つは、旅に出る。

 

できれば幼い頃からこういった経験をすることをお薦めする。

そうすれば「自分は何かしたいか」は見つかりやすいだろう。

料理は知的成果物でもあると知る #美食学のすゝめ

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料理は知的成果物でもある。

一流の料理人から話を聞いているとそう思える。

 

なぜそうしたのか?

どうしたくてそうしたのか?

 

ひとつひとつの工程にこの質問を投げかけていく。

そこには必ず理由があって、目的がある。

 

例えば、鮨のコハダ。

コハダを因数分解してみる。

シャリとネタに分かれる。

 

シャリはなぜその味なのか?

シャリはなぜその温度なのか?

シャリはなぜそのサイズなのか?

といった分解ができる。

 

コハダも同じく分解する。

なぜ酢で〆ているのか?

なぜ塩をするのか?

なぜ洗うのか?

なぜ骨を取るのか?

なぜ開くのか?

なぜ鱗をとるのか?

 

もっと分解できるだろうけど、兎に角ひとつひとつの工程に根拠があり、どうしたいのかという1つのゴールがある。

そのゴールがつまりは美味しさなのだが、この因数分解がそもそも出来ていないとその人の料理は必ずどこかで手詰まりになる。

 

というのは、因数分解できた分だけ変数が生まれるので、味の変化をつけられるわけだ。

なので、どれだけ多面的に、多角的にその食材や調理を分解できるかも味に関わってくる重要な料理人の腕・技術と呼べる。

この因数分解力は深いインサイトが無いとうまれない。知覚と思考、つまりは知性による仕事なのだ。

 

そして、因数分解した要素を増やしたり、減らしたり、無くしたり、入れ替えたり、真逆にしたり、組み合わせたり、真似したりなどの変異プロセスでエラーを出しながら自分の思う味に近づけていく。

 

変異プロセスにどんなストーリーを入れ込むかも料理人の知性と感性がモノを言うところだ。

例えば、歌舞伎や落語から引用してくるストーリーがあってもいいし、歴史的背景や地政学的なものでもいい。トレイルランニングをしているので自分が山で取ってきた山菜とか湧水とか。

大阪でお店をしていれば比較的全国各地の食材が手に入りやすい物流拠点で、恵まれた環境だといえる。だからこそ、あえて地のもので良いものを手間暇かけて調達するのもストーリーなのだ。

貝であれば、貝塚から縄文人を連想して、縄文時代にドングリを煮炊きして食べていたストーリーを加えてみても面白い。

変異プロセスにその料理人のオリジナリティが出るわけだ。

 

因数分解にしても、変異プロセスにしても、ストーリーにしても、どれもが知的な仕事に違いない。

豊富な知識と経験、鍛えられた知覚や思考、知性に基づいた繊細な仕事によって作られた料理は、誰がどう考えても知的成果物なのだ。

 

それを知ることで、食べる側は「なぜ?どうして?」を完成した料理を味わってから、因数分解して考えていく。

それが一流の美食家だろう。

ユーザーファーストで考えているのか?安易にweb集客の副業案件を募集している地方企業はまずはそこから始めろ

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副業人材の募集が賑わっている。

skill shiftやLoinoやJOINSといったサイトが、地方企業などの副業案件を紹介している。

大体が販促、特にWebマーケティングを手伝っておくれというものだ。

報酬は月額3万〜5万円程度。

 

いくつか募集している企業やお店のホームページを見てみたのだが、これが本当に酷い有り様。

UI/UXが恐ろしい程に売り手ファーストに作られている。

本当にこれお客様目線で考えてるの?

本当にお客様目線で考えてそうな他社のホームページ研究したの?

って疑問になる。

 

どれだけ素晴らしい商品を持っていても、買って使うまではその本当の良さはわからない。

せっかくのいい商品やサービス、ちゃんとお客さんに届くように、ユーザーファーストで考えましょうよ。

というのが共通した提案だろう。

 

ホームページやECサイトの1番トップで、いきなり「わたしたちの3つの強み」とか「わたしの想い」とか書いてもダメ。

それはキモすぎる。

あってもいいけど、もっと最後の方でいいのよ。

ライザップが1番初めに「わたしの想い」とか載せているか?

Amazonは?

ニトリは?

北欧、暮らしの道具店は?

Netflixは?

ルイヴィトンは?

 

ユーザーからしたら、

どんな商品があるのか?

その商品は本当にいいものなのか?

いくらで買えるのか?

どうすれば買えるのか?

ってことが知りたいわけ。

 

1番大切な商品すらどこにいけば見れるのかわからないサイトもあった。

というか、そういったサイトがそこそこある。

 

ユーザーが1番使い勝手いいようにホームページなり、ECサイトなりを作らないとマーケティングいくらやっても無駄。

 

 

SNSも商品を売る場所と考えて失敗しているケースが多い。

逆にあそこは自分の想いやストーリーを伝えられる場所。

ちゃんと使い分けてやれば絶対に上手くいく。

ちゃんと使っている人を見て真似をすれば上手くいく。

 

Webマーケティングも結局は人対人でしかない。

ユーザーファーストが大切なのだ。

一人一人の知覚と思考がより求められる時代でどう知性を磨くか?

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(一見すれば)非連続の出来事が起きて、あっという間に世界が変わる。

例えば、コロナ騒動がそうだし、東日本大震災などの大規模な天災もそうだろうし、他にもそういった突如これまでのやってきたことが通用しなくなることがある。

そんな時でも手詰まりにならずに、対応できて、進み続けられるにはどうすればいいのか?

 

誰にも未来はわからないし、結果は見えない。

だからこそ、「いま」やることが大切になってくる。

 

 

『手詰まりを起こさない為の目標設定』

まずはどんな未来を作りたいのか?

その意思をもって目標=ビジョンを定めなくてはいけない。

そのビジョンと現状にどれだけのギャップがあるのかを埋めていくことが、起こした変化であり、仕事となる。

 

では、どうすればビジョンを定められるのか?

ギャップを埋められるのか?

意思を持てるのか?

 

それは様々な体験によって得られる知性であり、思考であり、磨かれた知覚である。

 

私たちが知覚できるもの、つまりは認識できるものは、その価値を理解しているものだけである。

例えば寿司屋でヒラゴイワシを〆た握りが出てきても、その価値を理解できる人はほぼほぼいないので、そのまま普通に食べてしまう。

しかし、その価値を理解している人なら、驚き、その仕事の困難さや手間暇を知覚することができる。

思考とは知覚でインプットしたことをアウトプットに繋げることである。

 

磨かれた知覚も思考も全ては経験から生み出されていくもの。

なので、結局は基礎知識を身につけるために様々な体験をする他にないのだ。

 

本を読む。人に会う。旅をする。

手を動かして、足を動かして、頭を働かせる。

知覚したものを言葉や絵などで表現して、多面的に捉え直し、so whatを繰り返す。

 

そういったことすらしない・できない大人だらけ。

ならば、そういったことができる環境を作らないと変わることはない。

 

本来は子ども心で誰しもが知覚を磨き、思考を鍛えていたのだが、どこかでそれを失ってしまう。

やっぱりそこに根本的な課題があるんだろうな〜。

「感覚」と「思い」と「言葉」で世界は作られる #色即是空

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「この世界はすべて自分の心が投影したもの」

これは仏教の唯識思想でも説かれているが、物理学の世界でもそんな風に考えられていたりする。

 

つまりは目の前で起きている、この認識している世界は心の中のことなのだ。自分の心の中を見て、聞いて、嗅いで、味わって、肌で感じている。(それぞれ眼識・耳識・鼻識・舌識・身識といって、これらを五識と呼ぶ)

 

目や耳や鼻や舌や肌で認識している世界はどう考えても心の外の世界としか思えないのだが、なぜ心の中だといえるのか?

まったくもって頭が混乱する話だろう、、、。

 

ただ、こう言い換えてみて、ひとつずつ見ていくと、理解できそうなことでもある。

 

「私がそう感じ、そう思い、言語化したから、そのものは目の前に存在する」と。

 

例えば、今日私が街を歩いていると、道の向こうから「"可愛い"女性」が歩いてきた。

でも、実は私が見たのは、というか見せられたのは「女性」だ。心の外に女性は存在しているが、"可愛い"というものは実際にはない。

なので、「可愛い女性」というものは存在していない。なぜなら"可愛い"というのは私に生じた「思い」だからだ。

視覚という感覚が関わり、見るという行為(出来事)が起きた。その「感覚」に"可愛い"という「思い」をプラスした。

 

この"可愛い"という思いは末那識という、自我執着心から生み出されている。

その女性が可愛いかどうかは人それぞれに違う思いとなるので、その人を可愛いと思っているのは「自分」という自我に執着している結果なのだ。

 

そして、「あの人、可愛い女性だな〜」と言葉を発してしまう。この言葉を作るのが意識。

意識とは、五識と一緒に働いて感覚を明瞭にしたり、言葉を使って概念的に思考するものだ。

(五識に意識を足して六識と呼ぶ。)

 

心の外に女性は確かにいるが、「"可愛い"女性」はいない。「"可愛い"女性」は私の心の中にしか存在していない。しかし、私は「可愛い女性」が心の外に存在していると感じているし、そう認識している。それはこの世界が私の心の中で描かれている世界だからだ。

こういった六識や末那識、思いや可愛いという煩悩の一切を生み出すものが根本の心。その根本の心は阿頼耶識(あらやしき)と呼ばれている。

 

六識に末那識、阿頼耶識を加えて「八識」と言う。

 

攻殻機動隊草薙素子が「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らせ」と言っているが、八識に当てはまる話なのだ。

自分を変えるというのは根本の心を変えるということ。

「自分」に執着せず、無我であること。

少佐は色即是空を説いていたんだな〜。

1番有能で頂点に立つよりも、自分より優秀な右腕がいた方が上手くいく

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チームで動く以上はトップがメンバーの事を理解出来ないと真の力は発揮できない。

 

アレクサンドロス大王は超絶有能で今でも伝説が語られるほどの英雄だ。

彼は圧倒的に不利な戦争で勝ち続け、ペルシアを占領した。

ペルシア民を上手く支配するために、彼は三両したペルシアに迎合する施策をとる。

ペルシア民の民族衣装を見に纏い、ペルシア民の儀式を行った。

これに側近の臣下たちは困惑したり、怒ったりした。

 

例えば、日本人が中国と戦争して勝ったのに、天皇が中国人の民族衣装を着るようなものと言えば、当時の人たちがどれぐらい受け入れ難いことだったかよく分かるかと思う。

 

アレクサンドロス大王は合理的な判断として、ペルシア民に迎合する策をとった。

というのも、アレクサンドロス大王の本国から統治する場所は遠く離れていたし広かった。それにペルシア民の数も非常に多かったので、反乱が起きればそれを鎮めるのにとてつもないコストがかかる。

そのコストが無くなることを考えればペルシア民と表面上は仲良くやった方が楽なのだ。

 

アレクサンドロス大王は非常に優秀な人物だったので、そういった判断ができたのだが、周りの人間が彼の思考に追いついていなかった。

なので、多くの人が反対したし、彼と長年一緒に闘ってきた側近の者も反対する人たちがいた。

 

アレクサンドロス大王は自分が優秀過ぎるが故に、自分よりも無能な人達の気持ちや考えを理解することができなかった。

それに、それを許す事ができなかった。

なので彼は反対をどんどん処刑していく。

 

ここからアレクサンドロス大王の凋落が始まってしまう。

 

もしアレクサンドロス大王に彼よりも優秀な部下がいたらどうだったろうか?

例えば劉備でいうところの諸葛亮孔明のような参謀がいれば、、、。

 

トップが優秀過ぎるチームよりも、トップより優秀な人材がいるチームの方が、実は上手くいくのかもしれない。

なぜならチームのトップの役割はプレイヤーの脳裏とは全く別なのだから。

「自分」なんてこの世に存在していない #色即是空

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木。植物の木。

山に生えている時、遠くから見たら木は山の一部なので、「山」と認識されている。

その木を山から切り出してしまえば、「木材」となる。

その「木材」を使って家を建てれば木は「家」となる。

「家」を潰してしまえば木はゴミとなって、燃やされる。

そうすると木は灰となり、空気となり、いよいよ誰からも「木」とは認識されなくなる。

そもそも「木」の大部分を成す炭素原子は、二酸化炭素の炭素原子である。

もともとを「空気」だったものが「木」になっているのだから、これは本当に驚く。

 

さて、「山」を分解してみたらどうなるだろうか?

「山」は土や石や木や草や川の水や雪や動物、虫の集合体だと分かる。

そこに「山」と呼べるものは無い。

 

「家」を分解してみたらどうなるだろうか?

「家」は木だけではなく、ガラスやコンクリートや、中には家具やら電化製品やら、色々な物がある。

そこに「家」と呼べるものはない。

 

では、「自分」を分解してみるとどうなるだろうか?

髪の毛や爪、眼球、皮膚、内臓、血液、腕、足などなど、どれも「自分」と呼べるものはない。

さらに細かく細胞に分解してみても同じ。

もっと細かく分解すると原子になる。

酸素原子や炭素原子。

それらは「自分」になる前までは、水だったり、植物だったり、動物だったりした。

水や植物や動物の前はまた違うものだった。

 

「山」や「家」や「自分」とは一体なにか?

原子のレベルで見た時に「植物だった時の炭素原子」と「空気だった時の炭素原子」と「自分の時の炭素原子」に何の違いがあるのか?

そういった原子の塊の「山」と「家」と「自分」に何の違いがあるのか?

 

なぜ「自分」は「自分」で、家でも無く、山でもなく、空気でもないのか?

 

「自分」とはただの概念でしかない。「山」も「家」も同じようにただの概念だ。

さっきまで自分だったものが山にもなり、家にもなるのだから。

 

全てが自分であり、自分が全てでもある。

 

無我。

唯識

学んでいくとなんとも難しい。

釈迦の悟りに最新の量子力学や理論物理がようやく追いつき始めていて、釈迦の凄さを改めて知る。

何かを思いついた時に大切にしておくこと

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何か新しいことを思いついた人が100人いたとする。

 

思いついたままにして、何もしない人が80人。

 

とりあえずそれをやってみる人が20人。

 

やってみてすぐにやめてしまう人が16人。

 

続けていく人は4人。

成果を出す人、成功する人がこの4人。

 

もちろん全員ではないけども。

 

 

何かを思いついた時にどうするか?

やらんのかい!!

やめんのかい!!

って突っ込まれないようにしよう。

良き妻という理想像に縛り付けられる必要なんてない

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美味しい家庭料理が作れる。

というのは、女性にとって1つのステータスになっている。

らしい。

 

ただ、今や共働きの家庭が約6割といわれていて、仕事を終えてから晩飯を作る事が苦行となっている女性も少なくないようだ。

 

それなら作らなければいいじゃないって思うのだが、そうはいかない。

男性パートナーから晩飯作れ圧は勿論だが、女性自身がキッチンに立たないということに許可を出せないらしいのだ。

 

晩飯も作らない妻はダメな妻。

美味しい家庭料理を作れない女は女としてダメ。

みたいなレッテルを自ら貼ってしまう。

もしくは、周りに貼られてしまうと感じる。

特に親とか親戚とかが厄介なようだ。

 

たかだか家の料理ぐらいで大そうに考えなくても、家事代行サービスとか、まぁ色々と打開策はある。

今は得意なことは得意な人に任せて、自分は自分の出来ること、やりたい事に時間を使える時代になっているので、多くの人が解放されたら、もっと世の中面白くなるだろうなーと思う。

 

所詮は人生は暇つぶしなので。